Toppage

山内家関係

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家康が天下をとり、ほぼ安定した世の中になった江戸時代ですが、土佐では関ヶ原の戦いで明暗が分かれました。やむなく西軍に味方してしまったそれまでの領主長宗我部盛親は徳川幕府により追放され、代わりに東軍で手柄のあった山内一豊が土佐に封じられました。
 土佐に入った一豊はそれまで居た掛川城をモデルに大高坂城(>河内>高智>高知と改称)を築城し、その周囲に郭中、商人町などを作りますが、完成を見ずに入封後5年で亡くなります。
 一豊の弟である康豊の子、忠義が二代として藩政を引き継ぎ、小倉少助三省親子、野中兼山などを重用し長宗我部遺臣の反抗を防ぎながら築城、城下町づくり、インフラ整備、そしてその資本づくりなどに力を尽くします。現在でも野中兼山遺構として残って或いは利用されています。

 ようやく軌道に乗ったかと思った六代豊隆のとき宝永地震(1707)、七代豊常のとき大飢饉(1722)、八代豊敷のときには城下大火災(1727)により高知城が焼失してしまい、本丸再建が成ったのは江戸時代中頃の1749年でした。藩の財政は大変苦しくなり藩内に倹約令を出し、さらに幕府から1万5千両を借りなければなりませんでした。また、豊敷は藩校教授館を建て、家臣の学問の向上を図りました。
 十二代豊資のとき1800年頃から近海を通る外国船が増え、海岸警備を地下浪人や郷士に命じています。
 また勤王の原動力となる天保庄屋同盟が結成されています。

 十三代豊熈が亡くなった後、十四代豊惇が12日目に急逝してしまいました。幕府への届けが間に合わず取り潰しとなるところを十五代豊信が認めてもらった幕府への恩義が、後に土佐勤王党との厳しい対立になってしまいました。
 1854年安政の地震で被害を受けた後、1859年には「安政の大獄」により豊信(容堂)は隠居処分を受けました。
 十六代豊範のとき、文久1年(1861)永福寺門前事件が起き上士と下士の対立はいっそう激しくなり、武市半平太により土佐勤王党が結成され、吉村虎太郎や坂本龍馬の脱藩も起きました。翌年、豊範は吉田東洋に文武館を開校させましたが、討幕派である土佐勤王党により公武合体派の東洋は暗殺されました。
 5年後、豊信(容堂)は大政奉還を建白し、長く続いた徳川幕府の江戸時代が終わりました。


山内一豊公像(県立図書館)


山内家系図

土佐年表

山内家関係史跡地図

土佐藩の職制

史跡

○室戸回りの参勤交代で殿様が立ち寄ったこともある田野町の岡御殿

○田野町には安芸郡奉行所跡があり、田野学館も併設されていて中岡慎太郎も学んでいました。

○家老の五藤氏が自ら選んで入城したのは、安芸市街北部の安芸城です。

○岩佐、池川に並ぶ三大番所のひとつ参勤交代北山越え大豊町の(重文)立川番所跡

○家老深尾規重が家老や藩主により蟄居させられた屋敷跡は香南市香我美町山北です。

○山内家が戦国時代の霊を鎮めるため、香美市土佐山田に堂地を与えられた庚申堂

○長宗我部氏に変わり山内氏の配置が決定した後、最初に入城したのは高知市浦戸の浦戸城

○高知城築城の指揮をとった百々越前守邸址碑は高知市越前町にあります。

○掛川城をモデルにしたといわれる(重文)高知城は小さいながらも美しい天守があります。

○二代藩主山内忠義公が掛川から勧請したのは、高知市薊野の掛川神社です。

○初代藩主一豊が近江長浜から浦戸城下の長浜に勧請した多賀神社は今、桜井町にあります。

○山内家が城内城下鎮守の土佐藩直祭社とした高知八幡宮が東の鬼門を護ります。

○火災で焼失した藤波神社に変わり、歴代藩主を祀っている高知市鷹匠町の山内神社

○忠義公の菩提寺をめぐり争った勲的大和尚を祀る勲的神社は高知市洞ヶ島町にあります。

○十五代藩主豊信公の誕生地碑は高知市の追手筋北側にあります。

○山内家下屋敷の(重文)武者長屋は高知市の三翠園ホテルの中にあります。

○藩政初期に忠義公にとりたてられ 基盤整備等に尽力した野中兼山の遺構は県内各地に。

○本山に領地をもらっていた野中兼山の本山土居跡は現在本山町上街公園になっています。

○八代藩主山内豊敷公が藩校として創設した教授館跡は追手筋に碑があります。

○土佐南学の中興の祖、谷時中は甲浦で生まれ墓は高知市瀬戸にあります。

○容堂公の重臣であり、勤王に理解があった高知市大川筋の小南五郎右衛門誕生地碑

○下級武士の大川筋武家屋敷跡は訪れた1外国人の惜しむ声が元になり保存されました。

○「鯨酔海候」と自称した飲んべえ容堂公の座像が鏡川畔の山内神社にあります。

後藤象二郎が殖産興業・西洋科学振興等を行っていた開成館跡は高知市中之島にあります。

○中之島から移転させられた開成門は高知市小津町の小津高等学校にあります。

○第十六代藩主豊範の命により吉田東洋が創設した致道館並陶冶学校跡は城のすぐ西側。

○公武合体論を譲らず暗殺された吉田東洋受難の地は高知市の中の橋通りにあります。

○絵師の金蔵、絵金(弘瀬洞意)の作品が保存され、一部が見られる香南市「絵金蔵」。

○ジョン万次郎の帰国に際し、聞き取り役であった、絵師河田小龍の碑は高知市南はりまや町

○佐川山内(深尾)家の菩提寺は佐川町の青源寺、祈願時は佐川町の乗台寺です。

○宿毛市でも伊賀氏により建てられた講授館跡があり、宿毛歴史館前に碑があります。



墓所

○筆山の黒門の中には歴代藩主を埋葬した土佐山内家墓所があります。

○山内一豊が掛川から呼びよせ筆山の麓に寺を与えた在川和尚の墓は真如寺に。

○一豊の入城前に入り準備をした弟の康豊の墓所は要法寺の庭先にあります。

○藩主の内、山内容堂(豊信)公墓所(番外編)は江戸藩邸のあった東京の大井にあります。

○親、娘も一同に家老野中兼山墓所は筆山南面にあります。

○兼山を監督補佐した小倉少助・三省親子は、兼山の厳しさと対照的な温和さがありました。

○兼山のもとで技術をふるった一木権兵衛は、困難な室戸の築港において殉死しました。

○強力になり過ぎた兼山の権力を阻んだ家老孕石頼母の墓所は筆山北面にあります。

○孕石と組んで兼山弾劾を成功させた家老生駒木工の墓所は筆山東面にあります。

○家老家のひとつ、深尾東家の深尾規重の墓は五台山の深尾家の墓所にあります。

○家老の百々安政以降のいくつかの墓は筆山の百々家墓地にあります。

○家老乾家の墓所は南国市永源寺にあり、通称「乾の大墓」と呼ばれます。

○山内忠義公の戒名について争い負けた薫的大和尚之墓は洞ヶ島町の薫的神社にあります。

○一度は小高坂山に埋葬された薫的大和尚之墓がまだ小高坂山でも祭られています。

○勤王党に暗殺された吉田東洋の墓所は一族と一緒に筆山南面にあります。

○教授館総牽となり、学制をあらためた山内豊道の墓は筆山北面にあります。

播磨屋家とともに堀川に橋を架けた櫃屋家の墓は筆山南面にあります。

○無外流を広め、八代豊敷の剣術指南役だった森下辰直の墓は高知学園内にあります。

○最後の忍者か、手裏剣の名人、土佐藩の探索方、渡辺一寸の墓は一ノ谷渓谷に。

○康豊の跡を継ぎ中村を治めた次男の良豊の墓は四万十市。

○中村山内氏初代忠直の墓は四万十市中村にあり、高さ4.8mの大きい五輪塔です。

○同じく、忠直の墓の側にある少し小さい五輪塔が豊定の墓

○宿毛市の東福院には安東家、伊賀家、野中家墓所があります。

○山内一豊公の姉、北方様墓所も宿毛市にあります。