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浦戸城跡


2002年8月7日 最初に写真を撮りアップしましたが、その後少しずつ書き加えています。


 浦戸大橋から分かれて桂浜に向かう途中、龍馬記念館への
分岐道のところにバス停があり、バス回転広場になっています。

そのまま少し桂浜方面に進み、下りはじめたところの道路右側
に「浦戸城趾」の看板が見えます。この看板は何を意味してい
るのか不明ですが、左に上がると大きい石碑が立っています。
 


石碑の表側はコケが生えたりして文字がよく読めません。
頭の方に横書きで浦戸城趾と大きく書いてあるのをやっと
読むことができました。

「高知市歴史散歩」によると題字は東郷平八郎の字であり、
撰文は川田鉄弥で高千穂高等商業学校の創立者だそうです。


裏側には「大正八年七月建之 高千穂学校」とあります。

川田鉄弥は現高知市初月の出身の教育者で、明治36年に
高千穂尋常小学校を開校したのをはじめ、幼稚園や中学校
を次々と開校し、大正3年には高千穂高等商業学校を創立し
ました(現在は高千穂大学)。
ここにはこの石碑があるだけですから龍馬記念館の方に
あがりましょう。


龍馬記念館への坂道を上っていくと、峠の左上に鳥居が見えます。
ここが浦戸城の天守跡です。


峠の先には駐車場があり、その前には龍馬記念館があり、
手前には浦戸城天守跡への階段があります。


天守跡に上がると大山祇神社と城八幡の祠があります。


天守跡のようす。
城の礎石か何かあるかと思いましたが、残念なことに近年何かに使われて
いたと思われるコンクリートの土台などが撤去もされず残されているようです。
昭和33年には保養センターや展望台が作られていたそうですが、その跡でしょうか。
そのとき、この天守台の北側にあった石垣を撤去して道路や駐車場を作ったのだそうです。

天守跡だというのに、その頃は高知市も県も遺跡の価値も理解せずに
簡単に破壊し、その上に展望台などを作ったのでしょうが、
今となってはその展望台もなく、破壊された遺跡が残っただけなのです。
それなのに、ここでまた同じことが繰り返されようとしています。


 高知市史跡「浦戸城」の碑が駐車場の車の後ろで目立たずひっそりとありました。

 城跡の史蹟というからにはもっと説明が欲しいし、石垣はまだ他にもあるはず。
 鎌倉時代からの歴史があるはずで、地域の関連史蹟の紹介があってもいい。
 高知市は自分の土地なのになぜ資源を眠らせたままでいるのでしょう。


石垣が残されているように見えるのですが、これは国民宿舎の建物
を作るとき地下から現れた石垣の石を移動し積み上げたものだそうです。

<土の城から石垣の城へ>

長宗我部元親は大高坂城の整備に力を尽くしたあと、豊臣秀吉の意向に従い
海上交通の要衝をおさえ朝鮮出兵への基地としました。そのためこの場所にも
5間四方の三層の天守を建て、周囲の城郭はみごとな総石垣の近世的城郭に
なっていたそうです。
のちに長宗我部氏に代わった山内氏は、大高坂城を拡張して築城した高知城の
三の丸の櫓にこの天守を移設し使用、一部の石垣もはがし築城に使ったそうです。

この浦戸城の石垣をついた技術は、少し前に元親が整備した大高坂城の石垣より
進んでいて、山内氏がその後築城した高知城の石積み技術との中間にあたるそ
うです。従ってこの浦戸城の石垣は技術史的にも大切な実物見本なのです。

2014年現在、残されていた石垣がこの周辺の駐車場などの地下にそのまま埋め
られてまだ保存されています。浦戸城跡にこれ以上大きな建築物を建てるような
建築工事をして、貴重な遺物をこれ以上破壊するべきではありません。


駐車中の車の後ろに隠れてしまって、単なる石垣にしか見えません。


< 浦戸城山の開発による破壊 > 

昭和25年8月29日に文化財保護法が施行されました。
29年には改正がありましたが浦戸城跡の保護にはほとんど役に立っていません。

城山の開発は、浦戸城保存会のホームページによると、

昭和32年南斜面が道路にとられました。
昭和33年にはニノ段が平に削られニノ下の段に宿泊施設が建設されました。
昭和39年詰の段に国民宿舎、ヘルスセンターが造られ道路がつくられました。
昭和47年浦戸大橋と有料道路のためニノ段西南斜面が削られました。
平成3年ヘルスセンター跡地に龍馬記念館が建設されました。
この際、浦戸城の虎口付近にあたるトイレ建築現場から瓦が発掘されました。
平成5年国民宿舎改築工事にあたり調査が行われ石垣がいくつか発掘されました。
この調査で発掘された石垣が一部移動保存されているのが上の写真の石垣です。

すぐ隣の同じ頃に建設された龍馬記念館は建築前の埋蔵物文化財の調査をしていません。
今度の新館も県の担当者はその予定はないと公言しています。これはどういうことでしょうか。

平成26年には龍馬記念館が旧館を残したまま新館が追加建設される予定です。
これによって浦戸城跡は本丸をとられることになり、遺跡は大きく破壊されます。
坂本龍馬が大先輩の長宗我部元親の顔に泥を塗ることに等しく、調子に乗りすぎです。



国民宿舎「桂浜荘」
この建物の玄関に入らず、右手の方に進むと壁に次のような案内が示してありました。


 史跡を破壊したことを詫びる気持ちか、浦戸城の石垣が
見えるように残してあるということです。


案内に従っていくと、やっと石垣と分かる程度のわずかな部分が残されていました。
石垣の上にあがるための階段が左右に分かれてあがっているのは珍しいそうです。
このような石垣が現在判っているだけでも100m以上国民宿舎の地下で眠っています。


浦戸城の城郭内には現在「桂浜荘」の他に「坂本龍馬記念館」もあります。
浦戸城から見えたであろう景色が両方の建物からは見ることができます。


「浦戸城井戸跡」とされるものが坂本龍馬記念館の建物下の
東南隅に置かれていますが、この位置に井戸はなく、
建物を建てたときに移動されたものです。


三段になった駐車場の一番海寄りに、「浦戸古城之図」という小さな案内板があります。
現在の地図と見比べることができるようになればいいのにと思います。
図の上部に御屋敷と書かれている付近の小山の上を浦戸大橋が渡っているのではないかと思いますが。

 戦災などで破壊され、本物の史蹟が少ない高知県です。これ以上、今残る史蹟・遺物などを壊さないようにして活用するべきです。長宗我部関係の史蹟はこの浦戸城跡の近辺の地域に多くあります。本山軍との戦場跡や戦勝祈願の若宮八幡宮元親の墓所雪蹊寺の信親の墓所、一領具足の墓などです。それなのに中心となるべき浦戸城跡が未整備に近い状態のままで、他の観光産業にその土地を利用されてきました。その影響により本県の、いや全国的にも歴史的に誇れる長宗我部氏の浦戸城跡のことを高知県民、高知市民でも知る人は少ないようです。このページを見てもらって興味をもってもらえれば幸せです。この土地は高知市の土地なのです。

 秀吉の命により浦戸を水軍の基地としたことから、それに関わる仕事がこの地域にできました。種崎の中城家や川島家のような水主とか船大工から現在の造船へつながる業種がそのひとつです。また、上の絵図にあるように城主などは城で生活していたのではなく、屋敷は城下町の海岸近くにあり、ここで客人などももてなしていたようです。この頃外国の船が持っていた世界地図には浦戸が書き込まれていました。後に、浦戸付近ではスペイン船のサン・フェリッペ号事件がおき、秀吉のキリスト教迫害のきっかけといわれました。そして戦国時代が終わり江戸時代になるとき、徳川政権から土佐に配された山内一豊との交代が行われたのも浦戸城でした。新しい支配者に抵抗した一領具足たちの血なまぐさい大惨事も一度ならず起きました。

 長宗我部元親、妻子などについて、その歴史をたどるための資料は、長い間、物語や戦記などしかなく間違いも多く、いいことが書かれていても身内の書いたものだからと信用がありませんでした。しかし、最近の石谷家文書の発見に続く研究者の研究により、元親の存在は織田政権に大きく影響を与え無視できないものだったことが確かめられました。ひいては浦戸城跡の歴史的な価値は以前よりもはるかに高いものになっています。


 本丸の最南端であっただろう場所から西方を望むと、
はるか向こうまで伸びる海岸線がかすんで見えます。


駐車場の南西端から浦戸大橋の南側まで遊歩道が続いています。
ここは浦戸城の本丸からの出入り口になります。


少し遊歩道をたどってみました。階段が下っています。


少し階段を降りると、今度はゆるやかな上りになります。
その途中に旧大手門に向かう坂道があります。
現在は旧城下町からの津波避難路になっています。


また少し歩くと眺めの良い場所三の下壇に出ます。


もう少し歩くと遊歩道の通る尾根筋を横切る三条の堀切が
見られます。浦戸城の防御施設でした。
この後、遊歩道は浦戸大橋の方へ下りて行くようなので、
ここから引き返しました。

浦戸城跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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