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土佐の歴史散歩高知市東部>深尾家墓所

深尾家墓所


2013年3月21日(木)

深尾家墓所は兼山神社から巡礼道に従って登って行く途中にあります。
今日は、先日その山北の蟄居屋敷跡を訪ねた深尾規重という人のお墓を知りたくてやってきました。


深尾家の墓所です。同じような形の墓がたくさん並んでいました。


墓地に入ったところから順に見ていくと中程にありました。
「土佐国故太夫山内主馬藤原規重墓」享保六年(1721)八月二十九日歿
(太夫というのは家老職につけた敬称らしい)

山内家宝物資料館のHPによると深尾規重(1682〜1721)は、
 「深尾家の分家である東家の出身で、父は家老山内重直。 「山内」の称号を許可された。 5代藩主
豊房(とよふさ)(1672〜1706)から近習家老に抜擢されて、豊房の行った藩政改革を支えた。
 6代藩主豊隆(とよたか)(1673〜1720)の代では、宝永4(1707)年の大地震被害の復興策をめぐる
意見の対立や、地震の影響で幕府から参勤交代を免除されながら、母親の看病目的で江戸へ強行
しようとした豊隆を諫止したことから、豊隆と対立し、宝永7年に罷免。 一度は許されたものの、
正徳元(1711)年に深尾・孕石(はらみいし)両家の婚姻を豊隆が気に入らず、連座という形で
土佐国香美郡山北村(現香南市)に幽閉された。豊隆の死後豊常(1711〜25)が七代藩主となると、
規重は名誉を回復されて藩主補佐役となった。のちに規重の子市正が豊常の跡を継いで
8代藩主豊敷(とよのぶ)となった。」と紹介されています。

また、6代豊隆については、
 「宝永3(1706)年に兄の5代豊房が跡継ぎがいないまま死去したため、6代藩主となった。
 藩財政の逼迫状況に対し、家臣の減給や紙の専売制度などを導入するなど「宝永改革」を
実施し、政策の一部は後世の財政策の基本となった。
 高い政治手腕を有していたといわれる一方で、人望の厚かった儒学者谷秦山や奉行職
深尾規重を解任したうえ、財政難を理由に幕府より免除された江戸参勤を、江戸にいる
母の看病のために強引に再開したり、自身が発した倹約令に対する熱意に欠けるなど、
時折私事を優先することがあり、後世の批判を受けた。」と紹介されています。

以上から分かるように、5代藩主豊房に見いだされ、我が儘な6代藩主豊隆に罷免され、
再び7代藩主豊常によって名誉を回復されたのです。
また、土佐藩も、豊房は35歳で、豊隆は48歳で、豊常はわずか15歳で亡くなっていて、
藩財政の窮乏とともに、跡継ぎがいないというお家断絶の危機の中にありました。


墓石の左側面には、江戸で亡くなったので青松寺(東京港区)
の山中に葬り、ここには遺髪等を埋葬していることが刻まれて
いました。青松寺は江戸で藩主や家臣が亡くなった時に長州藩
なども利用していた曹洞宗のお寺です。

確執のあった六代藩主豊隆が亡くなって、まだ幼い豊隆の子
豊常が継ぐことになったのです。そのため、規重の学識や人徳
の高さから藩主の補佐役に推挙されたので、江戸で務め始めま
したが、残念なことに1年で病気にかかり亡くなってしまいました。

大変なことに、やがて豊常も15歳で病死してしまいました。
跡継ぎがなく、急遽、規重の長男茂固を豊常の養子とし跡を
継がせたのだそうで、波瀾万丈の規重、茂固親子の人生です。


「西大路家藤原姓女深尾規重後妻之墓」正徳四年(1714)六月九日歿。享年不明。
規重の妻は早くに亡くなり、後妻を娶り蟄居を受けて山北で暮らす間に茂固が生まれました。
しかし、次に弟の茂信が生まれると間もなくこの後妻も亡くなってしまいました。


「故太夫山内登之助重直墓」元禄二年(1689)四月二十七日、三十二歳で歿。
深尾東家の初代で、山内康豊の曾孫になります。規重の父で、規重が7歳の時に亡くなっています。


「藤原實庸之女山内重直妻墓」享保十年(1726)十一月二十七日歿。享年不明。
規重の母です。子の規重が先に亡くなってしまいました。

ここには他には茂固を除く東家、西家の全員が揃って静かに眠っていましたが、
あまり墓参はされてないように見え、土佐藩を支えた家老職であったのに寂しい感じがしました。
かといって、広大な墓所管理を現在生存の深尾家後裔や竹林寺だけに負担させるわけにもいかず、
史跡に準じると思われる、こういった墓所はどう管理していったらいいのでしょう。


墓所から海側に出ると、風光明媚といわれた吸江湾の風景が広がっていました。

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