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生駒木工墓所


2010年2月19日 生駒家の墓所を訪れました。

 二代目忠義の信頼を得て執政となり、豪腕をふるい新田開発や捕鯨、港の建設などを行い藩の財政を立て直す一方、領民に苦役を課したのが野中兼山でした。領民は過酷な搾取に疲弊し、その様子は他国にも聞こえるようになったのです。
 やがて三代目忠豊が藩主となった後、深尾を初めとする三老臣の書いた弾劾文を元に忠義の近習家老であった生駒木工と、忠豊の近習家老であった孕石頼母が組んで旧藩主と藩主に訴え幕府方とも連携し、力を持ちすぎ藩主をもないがしろにし始めた野中兼山を弾劾したのです。(高知新聞連載「鬼の島」松岡司)

孕石頼母の墓所がずいぶんと立派だったので、生駒木工もさぞ大きな墓だろうと思って訪ねたのですが、意外に小さなものでした。


小さな墓が十基ばかり並んでいる墓所全景です。
右の集団の最前列の上野総右衛門の二男が二代藩主忠義から生駒姓を賜り、
生駒木工直綱(初代木工)と名乗りました。


「慈父梅心院半斎日陽」は直綱の長男生駒木工政重で、寛文六年(1666)に70才で亡くなっています。
野中兼山が亡くなってわずか3年後です。
半斎は剃髪入道したときの名前だそうです。

このほか、参道をはさんだ南側上方には生駒木工先祖碑や初代木工、三代木工などの墓があります。
二代木工は家を継いだ弟の直良が早世してしまったので、棚橋家に養子に出ていた政重が継ぐようになったのだそうです。


入り口から見た墓所全景です。


墓所入り口にある生駒氏祖考之碑です。本姓は上野氏である
ことなどから始まり三面にわたって記されています。

生駒木工の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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