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旧立川番所書院


1993年12月8日 初めて訪れ、それ以来何度か訪れました。

 高知自動車道の新宮インターから大豊インターへ向かう途中に長い笹ヶ峰トンネルの南に短い刈屋トンネルがあります。
 立川番所跡はその近くにあります。


 ここに行くには、新宮インターから大豊インターまでの自動車道の
近くを平行している一般道路で、大豊インターから約14km走ります。
新宮インターからの方が地図上では近いのですが、笹ヶ峰を越える
のでカーブが多く運転が大変かもしれません。しかし、その道中に
笹ヶ峰頂上を越える土佐北街道の入口がありますので、立ち寄って
みてもいいですね。頂上まで約30分で登ることができます。


この道路は参勤交代が通った「土佐北街道」と所々で合流しています。
合流点では、立川番所保存会が立て札を立て、わかりやすくしています。


「土佐北街道」@新宮
立川の歴史は官道の歴史に重なります。官道ははじめ伊予から幡多経由で国府に入っていました。
奈良時代の「続日本紀」には阿波国から土佐に通ずる道を選び路程を短縮したという記事があり、
続く平安時代には「日本後紀」に新しく本山、立川の2駅をおく(797年)という記述が見えるそうです。
これにより、この地が土佐への文化の入口となり、発展していったのです。


 山内家6代豊隆の時代、享保3年(1718)に、今まで海路をとって
いた参勤交代の経路を初めて北山越えに変えました。
 当時、飢饉や災害で土佐藩は未曾有の経済危機にあり、少しでも
負担を減らすため、経費の少ない陸路を幕府に願い出たのです。


 ここは、参勤交代北山越えの経路では土佐領内の最後の藩主の宿所です。
 東の岩佐番所、西の池川番所とならんで土佐の三大番所のひとつとなりました。
ここには藩主と家老級の上級武士が泊まり、他は川上と川下に別れてあった
街道沿いの数多くの宿泊所に泊まったようです。


 山間部では珍しい書院建築で、寄棟造り一部入母屋造り茅葺きの
平屋建てで、昭和49年に国の重要文化財に指定されています。


玄関の間


 殿様の寝所は一段高くなっていて、欄間も手の込んだ造りですし、
違い棚や天袋はありませんが、床の間の左の方には美しい明かり
障子を具えた書院があります。


大広間は畳が21枚敷かれています。


ここで使用されていた様々なものがガラスケースの中に展示されています。


昭和47年4月に高知県写真家協会長であった西岡富久美氏の
撮影による、改築前の立川御殿の写真が展示されています。
江戸時代の番所役人であった川井惣左右衛門忠勝が寛政年間に
建てたものが、約200年後の現在まで残っているということです。
明治時代になって鈴木氏の手に渡り、旅人宿となって一部改装
せられましたが昭和48年大豊町が譲り受け、昭和49年(1974)
国の重要文化財に指定されました。


 しかし、西岡氏の写真を見るとわかるように建物の傷みが激しく、
昭和55年より3年間で、国、県の補助を得ながら総工費約1億円
あまりをかけて解体復元工事がなされました。
 地域にほとんど茅場がなくなり、また住民の高齢化が進んだ現在、
茅葺き屋根のカヤは岡山県の専門業者が全国から集めていて、
葺き替えも行うそうです。


裏山には番人庄屋川井家歴代の墓所があり、50基ほどの墓があります。
川井家は明治になりお役ご免となりましたが、現在も子孫の方が、
立川番所保存会の役員として、番所や付近の史跡の保存に力を
尽くされています。


番所から川上の少し離れたところに荷宿という場所があります。
立川は交通、物流の要衝となり宿場ができました。このあたりにあった
木屋岩吉の家で、水戸浪士住谷寅之助らと坂本龍馬らが会見しました。
龍馬24歳、江戸から帰国したばかりで政治情勢にはうとい時でした。

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