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山内容堂誕生地

 土佐藩の15代藩主山内豊信(とよしげ)。隠居してから容堂(ようどう)と号した。(1827〜72)
 型破りの向こうっ気の強い殿様でしたが、学問を好み、よく時代をみきわめて勇敢に行動したらしい。
 将軍継承問題で一橋慶喜(よしのぶ)を推しますが、徳川慶富(よしとみ)を推す井伊直弼に敗れ、安政の大獄となりました。このとき豊信は隠居願を出し家督を豊範に譲(1859)りましたが、その後も謹慎を命じられました。
 桜田門外の変(1860)で井伊直弼が死ぬと幕政改革が行われ、容堂の謹慎も解かれ(1862)ました。
 一番有名なのは慶応3年10月3日に容堂の名で大政奉還の建白書が提出されたことでしょう。


2003年1月25日 市内遺跡を訪れました。


東西の追手筋と南北の大橋通の交差点に土佐女子高校があります。
その女子校の前から歩道を西へ進むとこの碑があります。


 12代藩主豊資の弟豊著の子ですが、代々の藩主の中で
彼だけが土佐庶民(大工の棟梁の家)を母に持つとか、
お酒が好きで、「鯨海酔候」と号していたなどと聞くと大変
親しみが持てます。


石柱の横にある説明板です。大政奉還を建白したことが最後に書かれています。

山内容堂誕生地跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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