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長宗我部氏関係


長宗我部元親初陣の像(若宮八幡宮)

 土佐の戦国時代の雄、長宗我部氏はその先祖は大陸からの渡来人の秦氏であるといわれていますが、土佐の岡豊で10代以上も略系図続いて暮らしていますからすっかり土佐人といえますね。ハイライトは長宗我部元親(ちょうそがべ もとちか)です。

 南北朝時代(1333〜1392))には土佐守護職は細川家となり、長宗我部氏はその家臣となって細川家の権威のもとで活動し、「土佐物語」によると一条氏が下向した際ももてなしていたそうです。しかし、元親の祖父の兼序(かねつぐ)=元秀(もとひで)のとき細川家に跡目争いのお家騒動が起きました。この隙を狙ってか、元秀は周囲の国人たち、則ち本山氏、山田氏、吉良氏、大平氏に陥れられました。

 このときの元秀親子の消息には様々あり、岡豊城は焼き討ちされ元秀は自殺、幼子の千雄丸(せんゆうまる)は一条氏のもとへ逃がし、千雄丸が成長して国親(くにちか)となり一条氏の取りなしで岡豊に帰ったという「土佐物語」説や、元秀が孤立したため千雄丸を連れて大忍荘へ逃れ、後に山田氏と和睦して岡豊城に帰ったとかの説があります。さらに、助けたのは一条氏ではなく大平氏であり、国親の国という字は国信からもらったという説や、いや細川氏の保護を受け細川高国の国をもらったのだという説もあります。
 いずれにせよ、やがて力をつけた国親は山田氏を滅ぼし、本山氏と対峙するようになりました。

 国親の子の元親は、幼時は弱々しく姫若子(ひめわこ)と侮られていたのですが、成長すると、めきめきと頭角を現し鬼若子(おにわこ)とも呼ばれるようになったそうです。仇敵本山氏を討ち破り、安芸氏を討ち、その他各地の豪族を従えていきます。

 最近発見された古文書の研究では元親の妻は石谷氏から来ていて、幕府要人の斉藤氏や蜷川氏と親戚であり、明智光秀と太いパイプを持っていました。長男に信の字を織田信長からもらったといいますし、土佐を統一したのも信長の承認のうえだったのですが、そのうち信長の気が変わり、元親をおさえにかかりました。そのとき丁度本能寺の変が起き、明智光秀により信長は討たれました。元親は一時は信長に恭順の意を示していたのですが、軍を進め、四国平定が間近になりました。 (2014年11月に高知新聞に掲載されたように、岡山県の林原美術館で発見された石谷家文書が元親と信長、光秀らの関係を覗わせて面白いです。)

 ところが信長が討たれることを予期していたように豊臣秀吉が素早く討伐軍を四国に送り、元親は土佐一国に戻されました。元親は秀吉の臣下となりますが、なおも力をそがれていきます。秀吉の命令で困難な九州攻めを行いましたが、その戦場戸次川で最愛の長男信親(のぶちか)を失い、自らも命からがら逃げ帰りました。その後も秀吉からは朝鮮出兵を命じられたり様々な軍役を命じられました。

 代々使ってきた岡豊城が手狭となり元親は大高坂城(おおたかさかじょう=高知城の前身)を接収し大がかりな改修を行い、城下町をつくり各地から町民を呼び寄せました。その一方、豊臣政権から命じられた朝鮮出兵に際しては海上交通の要衝である湾口の浦戸城の整備も行い、総石垣の近世的城郭に仕上げ盛親の居城としました。

 元親は長男信親を失ったあと三男親忠を蟄居させ、四男盛親(もりちか)に跡を継がせたあと、上洛中病死しました。その後豊臣対徳川の天下分け目の戦いが関ヶ原で起き、政権は徳川家康に移りました。この戦いで盛親が豊臣に加勢していたことや、元親が蟄居させていた兄を盛親が殺害したことを理由に、お家取り潰しとなり、徳川に功績のあった山内一豊に藩主の座を明け渡すことになりました。領民の一領具足は、一揆をもって新しい藩主の入城に最後の抵抗をしました。

 (長宗我部関係については岡豊城跡にある県立歴史民俗資料館に資料があります。)
 

史跡

○長宗我部氏の本城であり、県立歴史民俗資料館のある岡豊城趾は南国市岡豊にあり、最近、国の史跡に指定されました。

○元親の父、国親がしばらく養育してもらったとされる一条氏を祀っているのは四万十市の一条神社です。

○長宗我部軍と本山軍の激戦地、元親初陣の地とされる伝説の戸の本古戦場跡碑は高知市長浜にあります。

○元親の戦勝祈願の神社である若宮八幡宮は出蜻蛉形式の拝殿で、高知市長浜にあり元親初陣の像が建っています。

○同じく凱旋報告の神社である土佐一宮神社は入り蜻蛉形式の拝殿で高知市一宮(いっく)にあります。

○水軍や海上交易を重視した浦戸城跡は高知市浦戸の坂本龍馬記念館の前です。

○南国市国分にある国分寺の本堂は長宗我部元親が再建しました。

○長宗我部氏の大敵だった本山氏の本山城跡(本山町)朝倉城跡(朝倉)高の森城跡(福井町)水口城跡(横浜)も見てきました。

○長宗我部氏の仇敵、本山氏ゆかりの東光寺は本山町にあります。

○安芸攻略戦で長宗我部の参謀として活躍した吉田備後守重俊の吉田城跡碑は岡豊城山の東にあります。

○東部で対抗していた安芸国虎も居城を焼かれ、奥方を幡多一条に送り出した後に城西方の浄貞寺で自刃しました。

○元親が滅ぼした安芸氏の遠祖といわれる蘇我赤兄を祀る安芸市の蘇我神社は安芸川と伊尾木川の中間にありました。

平田のお雪に心を奪われ政務をおろそかにし、わがままな振る舞いを続けた一条兼定を土佐から排斥しました。

○長宗我部元親の妹婿であった波川玄蕃頭清宗の居城跡はいの町波川(はかわ)の山中にありました。

○元親の酒樽を砕いて元親をいさめたという、腹の据わった福留隼人を祀る隼人神社は高知市の田邊島にあります。

○大忍庄が熊野から勧請してあった若一王子宮を、元親が永禄4年に改築しました。

一条氏と長宗我部氏の戦場跡が四万十川流域の奥屋内にもあります。


系図

長宗我部家系図


<広域地図>

長宗我部氏関係史跡地図

戦国時代の主要豪族地図


墓所

長宗我部元親の墓所は高知市長浜の天甫寺山にあります。

○五輪塔が沢山並ぶ(伝)長宗我部氏祖先の墓所は岡豊城跡北側の麓にあり、岡豊城跡から歩いて行くことができます。

○元親の三男で、元親の死後、四男盛親に殺された親忠の墓所は南国市との境界直近の土佐山田町にある津野神社です。

○「はりまや橋」を架けた播磨屋宗徳は元親が招いた播磨の国の豪商で、高知市横浜に播磨屋家の墓所があります。

○元親の従弟の掃部介親興は、元親の後継者選びに意見をし怒りを買い、討手に追われ自刃しました。墓所比江山神社は土佐山田です。

○戸次川で戦死した信親の墓もあるという、元親の菩提寺の雪蹊寺、秦神社は高知市長浜です

○山内氏入城後虐殺された長宗我部遺臣(一領具足)たちを慰霊する六体地蔵(石丸神社)は桂浜花街道の東端近くにあります。

○旅の途中、いの町成山で行き倒れた伊予の紙職人新之丞は元親の妹養甫尼らに助けられましたが、・・・


<一条家墓所>

○応仁の乱を避けて幡多の庄にやってきた一条教房の墓は中村高等学校近くにあります。

○元親の父、国親を養育した一条房家の墓は宿毛市平田にあります。

○伏見の宮の王女、一条房冬の妻、玉姫の墓は四万十市中村小学校前にあります。

○祖父房家、父房冬の死後、土豪が台頭し苦しくなった一条房基の墓は四万十市新町です。