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吉田城跡


 2005年12月24日 今日はクリスマスイブですが、今年はなぜかそんな気にもなりません。
 県立歴史民俗博物館を訪れました。ちょうど、野本学芸員が解説を始めるところで、企画展示室に急ぎました。
 今は企画展は「描かれた土佐の浦々」ということで、一昨年東京の古書店で発見された絵図が展示されていました。月に2回学芸員が展示室トークをしているようです。偶然に思いついて来たのですが、ちょうどこの日にあたっていて、文字による解説板もあるのですが、それより詳しい情報をいろいろ聞くことができました。
 ここでは写真撮影が禁止されていますので、いただいた機関誌「岡豊風日」にその一部である「白浜図」が掲載されていますので、雰囲気だけでもお伝えしましょう。


 さて、前回訪ねた浄貞寺で、国虎の家老である黒岩越前守が国虎の奥方を一条に送り届け、その帰り道に長宗我部の家臣に誘われたということを書きました。
 この長宗我部の安芸攻略戦では長宗我部の参謀として吉田備後守重俊が活躍しているのですね。黒岩越前守を誘ったのもこの吉田らしいのです。そこで、今日はその吉田氏の居城跡の場所を歴史民俗博物館でお聞きし、行ってみました。なお、下にはネット上で検索した結果を略系図にまとめてみました。

参考 藤原氏 // 首藤俊宗 // 吉田備前守則弘--+--吉田備中守孝頼(周孝)--+  +--吉田貞重---------+--吉田弥右衛門重親・・・
                                            |                          +--+                   |
                                            |      長宗我部元秀女 -----+  +--吉田孫三郎周重   +--吉田孫太夫・・・
                                            |                                                 |
                                            |                                                 +--吉田弥右衛門・・・
                                            |
                                            +--吉田備後守重俊----+--吉田重康--+--吉田左馬允・・・
                                                                 |            |
                                                                 |            +--吉田左衛門佐孝俊・・・
                                                                 |            |
                                                                 |            +--吉田孫助俊政-+--吉田市右衛門正義//吉田東洋
                                                                 |                            |
                                                                 |                            +--吉田市左衛門正重//吉田孝世
                                                                 +--江村親家・・・

 ・俊宗の弟の俊氏が後に山内氏を名乗ったそうで、徳川時代に土佐に入った山内氏と吉田氏とは同族といえるそうです。
 ・孝頼(周孝)は知略と武勇に優れ、幡多の一条から岡豊に復帰したばかりの長宗我部国親の家臣となり、重用されたようです。
 ・重康は安芸氏攻略に奇計を使い八流から敗走させ、籠城した安芸郡を計略により内部崩壊させたといわれています。
 ・「土佐物語」の作者である吉田孝世は重俊から六代目。
 ・参考にしたウェブや「土佐物語」では孝頼の妻は長宗我部国親の妹となっていますが、「高知県の歴史」等の長宗我部氏の系図では元秀(兼序)の妹が吉田に嫁いだことになっています。この食い違いは養女?。


甫喜ヶ峰の2基の風車がはるかに見えるまほろばの里に吉田城跡はありました。
西方間近には岡豊城跡も見えました。


平城を護るため東側にわずかに残る土塁の跡。木の下にはいくつかの古い墓がありました。


屋地が迫り窮屈になっている祠と桜の木。
なぜもっとゆとりを持たせて建築許可をしないのでしょうか。


西側にも土塁の跡があり、いくつかの墓地になっていました。


住宅の方に向いて立っているので、壁にはりついて撮影しなければなりませんでした。
もとはこちらの方が広々として、建物も無かったのでしょうね。誠に無粋なことです。
吉田城跡ではなく、「吉田備後守邸跡」となっています。


裏側を見ると19人の賛同者の名が彫られていました。
ということは県も市もここには無関心だったので個人的な寄付でこの場所を護っているということでしょう。


小さな祠は吉田神社とでもいうのでしょうか。


祠の脇にはいくつかの五輪塔の一部が祀られていました。
吉田家代々のものか、家臣も入っているのかわかりません。

吉田城跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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