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成山(紙漉職人新之丞と安芸三郎左衛門&養甫尼)


新之丞生誕地はここ

2004年2月21日

 午前中は晴れでよい天気でしたが、午後になり少し曇ってきました。
 天気予報では夜には雨になるようです。
 どこか近場で歴史を探訪できるところはないかと歴史本をめくっていると、製紙業で有名な伊野町の後背地の山中に成山という所があり、土佐に紙作りを伝授した人の墓があるということが書いてありました。既に昼前になっていましたが、スーパーでお弁当を買い込んで出かけました。
 伊野町に入り、仁淀川に沿って少し走り神谷(こうのたに)から山中に登ってきました。結構急斜面で車幅いっぱいの狭い道で、所々にこのようにきれいな石垣の棚田が築かれていました。
 山中にはこのように2〜3軒ずつの集落が散在していましたが、途中の毛田という集落にはかなりの家がありました。そこで道が二手に分かれていて、不安だったので道を尋ねましたが、大変丁寧に教えていただきました。
 再び急な上りと曲がりくねった細い道を進み、七色の里成山に着きました。ここには新しい公民館のような建物がありました。
 成山の集落から更に上り、峠にさしかかるところに、道路の上に木橋がかかっているところがあり、ここが「仏ヶ峠」でした。
 立派な駐車場やきれいなトイレもあり、こんな山中にと驚きました。
 駐車場からは南の仁淀川筋から天王ニュータウンや朝倉の町並み、その東の高知市街までのパノラマと今日は霞んで見えませんでしたが、それらの向こうには太平洋が見えるそうです。
 振り返るとさっきの木橋が見え、その向こうには自然石の石碑が立っているのが見えます。
 これが、土佐に七色の紙の製法を伝えた新之丞という、旅人の碑でした。
 大正5年に地域の人がこの石碑を建てたようです。

 慶長初年(1596)の頃、遍路の途中に成山村の小道で、病のため行き倒れた新之丞は、この地に暮らしていた養甫尼(長宗我部元親の妹)と安芸三郎左衛門家友(安芸国虎の第二子)に助けられました。
 新之丞の病が全快した後、二人に七色の和紙の漉き方を教える間に数年たち、帰国の段になりこの峠まで見送ってきた三郎左衛門は、他国にこの技術が漏れるのを畏れ新之丞を斬殺したという伝説です。 
 この大きい石碑の台座の左側に小さな地蔵が祀られています。
 上の石碑ができるまではこの地蔵があっただけのようです。小さい地蔵の台座が前に置かれていますが、伊予の国の新之丞の故郷である日向谷の文字が刻まれているのがうっすらと見えました。
 奥にある地蔵がなぜ二つあるのか不思議です。
 かたわらには伊野町が建てた立派な説明板があり、上のような伝説の説明が書かれていました。
 さらにこの峠には祠が二つありました。
 ひとつは八坂神社と書かれていましたがもうひとつはこの祠で、中には5体の地蔵がありました。
 祠の脇にかかっている木片に説明がありました。それによると、村次という優しくハンサムな男がいて、多くの娘達がファンだったが、中でも熱心なお須波、お佐意、お純という仲良し三人組がいた。この世では三人と村次は結ばれないと思い、あの世でと心中を図ったが死にきれない村次は兄に留めをさしてもらったという悲しいお話でした。
 真ん中の地蔵の台座には天保十二年七月八日および戒名、そして俗名村次、行年廿七と書かれています。
 峠を離れ、さらに進むと横藪という集落に入りますが、その入り口近くにあるのが寛永11年に75歳で亡くなった安芸三郎左衛門家友の墓です。
 その形式も寛永14年に建てられた「板卒塔婆形五輪塔」というもので珍しいものだそうです。
 墓地の隅には記念碑が建っていました。
 文字は読むことができませんでしたが、おそらくは大正8年(1919)に土佐和紙生産の功を讃えられ従五位の追贈を受けた記念ではないでしょうか。
 この横藪の集落でも屋敷跡とかを地元の人に尋ねたのですがとても親切に答えていただきました。
 帰りは今まで来た道を引き返さず、そのまま進むと、伊野の大橋のたもとにあるGSの脇に出てきました。

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