土佐の歴史散歩高知市西部>朝倉城跡

朝倉城跡および朝倉城山遺跡



前回朝倉神社に行ったとき見つけた「みやのおく」電停より少し東の道路南側の看板

2005.4.16 良い天気に恵まれ、2年ぶりに朝倉を散策しました。


造幣局の西方の旧国道に朝倉城跡の案内板がありました。


しばらく狭い道路を上ると北城山公民館がありました。そこに車を置いてこの看板を頼りに右上方に歩きました。


家並みがとぎれ、舗装路もとぎれたところに「東登り口」という案内の標柱が立っていました。


詰ノ段
竹林の間をどんどん上がると空堀、竪堀の説明板があり、
更に上がるとニノ段、三ノ段があり、その上に詰ノ段がありました。


史蹟朝倉城址の石柱
その脇にあった説明板より朝倉城を紹介します。

県指定史跡 朝倉城跡

 古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的、地理的に重要なこの地に築城して天文9年(1540)ここに移った。
 永禄3年(1560)にはじまった長宗我部氏との激突は数度に及んだが、勝敗は決せず、梅慶の後を継いだ子の茂辰は、不利な形勢と朝倉城死守の困難をさとり永禄6年(1563)1月城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。県内随一の規模を誇る中世城跡である。


 平成元年3月
          高知市教育委員会


サクラの大木が根こそぎ倒れていました。
こうなっても枝の先にはたくさんの花がついていました。


小さい社の横で御神木のような大木が3mぐらいの高さから折れて落ちていました。
おそらく昨年の台風によりこのあたりで強い突風が吹いたのでしょう。


城八幡
この門柱の脇には昭和45年高知県指定史跡の標柱も立っていましたが、
この半年では手がつけられず、倒木も鳥居も倒れたままになっていました。


朝倉公園の碑
昭和十五年に紀元二千六百年記念として、地元の有志によりこの公園は整備されたようです。


東方を望むと土佐塾高校や鷲尾山、筆山などが見えました。
ギターの練習をしに来た青年が一人いました。良い場所です


台風の強い風をなんとかまぬがれたサクラの木


ウマノアシガタまたはキンポウゲ(金鳳華)
詰ノ段には沢山この花が咲いていました。


下る途中にあった石垣。
城の時代の物か、戦中戦後の食料増産の時代のものか。


空堀の跡か。


長いことあまり人手が入ってないのか、ひょろひょろと
背の高い雑木が競い合って上に伸びています。   


下りてきたところは西登口でした。

<朝倉城山遺跡>


そのまま歩くと果樹試験場に来ました。

 
ナシやカキのりっぱな保存木が植えられていました。

この場所は「朝倉城山遺跡」ともなっていて、昭和4年から9年にかけて果樹園を造成する際に弥生時代の遺物が掘り出されたそうです。
2000年前の人々が石器や土器を使って稲作を中心に狩猟や魚を捕って生活をしていた場所ということです。
弥生式の土器や石の包丁、斧、鏃などが出土し、また、2棟の竪穴住居跡が確認されたということです。


試験場から見た朝倉城跡です。今日はいい汗をかきました。


2018年6月11日鏡川橋南詰め歩道橋から朝倉城山を望む。

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