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水口神社


2005年4月29日
 ライオン宰相といわれた浜口雄幸の実家である唐谷の水口家は、長宗我部時代以前にはこの水口神社の場所に水口城を築いていました。


 高知市横浜のこの大きい交差点が目印。
 このひとつ南にある小さい交差点を西に入るとすぐ。


 こんもりとした小山のふもとに鳥居が見えました。


 「水口神社」の額があります。
 足元には白花のツユクサやタツナミソウ、オドリコソウなどの花が迎えてくれました。


 10mぐらい登ると門柱のように寄進された石柱が立っていました。
 大正10年に水口康という方が寄進されたことがわかります。
 一族の方なのでしょうね。


 さらに登るとすぐに頂上に出ました。
 そこにはトタン張りの拝殿と本殿がありました。
 途中には猫の額ほどのニノ段、三ノ段らしき平らな部分がありました。


水はありませんが手水鉢です。


 本殿の覆いの中を開けさせていただきました。
 お賽銭を入れて、長宗我部時代に思いをめぐらせました。


 由来書によると、以下のようです。
 「室町時代の永正14(1517)年に津野氏の家臣であった水野惣右衛門が、一条氏の領地であった
戸波の福井玄蕃と戦ったが全滅となり、乳母に頼んでその子を逃がした。
西孕山中に隠れ住んだ後成長し水口山に小城を構えるようになった。永禄3(1560)年に
水口次郎左右衛門は本山氏に仕えていたが、長宗我部国親の長浜城攻めに会い、
鴻の森、秋山、森山、諸木などの城と共に水口城も陥落した。五台山の唐谷に逃げ込み
隠れ住んで徳川時代を迎え、山内家にとりたてられた。延宝5(1678)年水口三郎衛門が
八幡宮を創建、宝暦7(1757)年水口安右衛門が神社を再興、祖先を合祭した。」(要約)

水口城跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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