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33番札所 雪蹊寺(せっけいじ)、秦神社(はたじんじゃ)、長宗我部信親の墓


2002年8月1日 暑い日の夕方訪問しました。(2005.8.9再訪)

 
四国霊場八十八カ所の第三十三番札所、高福山高福院雪蹊寺です。
臨済宗妙心寺派、本尊は薬師如来です。
また、長宗我部元親の菩提寺として、すぐ隣にある秦神社とともによく知られています。


門を入るとすぐ左手にあります。
雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世山本大玄和尚のために、
養子嗣法となった玄峰和尚が建立した塔だそうです。


水子地蔵の群れの下にぽつんと置かれた墓石ふたつ。
土居楠五郎(保)夫妻のもので、坂本龍馬の剣の師だそうです。
築屋敷の日根野道場の師範代として、龍馬が14歳の時から指
導し、人間形成にも深い影響を与えたと説明されています。


門を入ると本堂までまっすぐ石畳が続きます。


右には鐘楼があり、一般は鐘をつかないでと注意書きがありました。

 
 ちょうど、お遍路さんの一行が大型バスで到着し、にぎやかになりました。(右、2005年改築された本堂)
 この本堂の裏に長宗我部元親の嫡子信親の墓所があり、
お寺の方にお断りして渡り廊下をくぐり参拝してきました。


 すぐ隣にある秦神社。
 明治のはじめ、雪蹊寺が一度廃寺となったので、
この秦神社が元親の菩提を弔っていたそうです。


2010年2月21日(日) 再び雪蹊寺を訪れ、周囲の墓地を見学して来ました。


 本堂の右後ろには長宗我部元親の長男信親の墓所があります。
 四国を平定近くまで達した元親でしたが、豊臣秀吉に屈服させられ土佐
一藩に戻され、また度々軍役を課せられました。
 この最初の軍役が、讃岐の仙石秀久が率いた島津討伐でしたが、信親
の勇猛さが災いし戸次川の戦いでだまし討ちに遭い敗北、信親をはじめ
700名余の犠牲者を出したということです。
 段の左方には犠牲者のための墓標がありました。


 22歳で島津の伏兵に討たれた信親の墓は元親の墓とほとんど同じ塔です。
頼みとしていた長男の死に、元親は人が変わった様だったといわれています。


同じ域内にある月峰和尚の墓です。香美郡の生まれで
10歳で出家、その後雪蹊寺中興の祖となりました。
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の敗戦後、一領具足の浦戸
一揆が起きたとき、中に立ち開城に貢献したそうです。


戸次川戦没者の供養塔です。



さらに忠魂碑のある墓地の右外を回り、小径に沿って奥に進み、
左の山手に上がると代々の雪蹊寺代々の住職の墓所がありました。


天質和尚の墓です。
春野の吉良氏が南村梅軒を呼んで受講した朱子学を
学び、谷時中に伝え土佐南学として広めました。
谷時中は野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らに伝えました。
元和九年(1623)十月十七日寂


明治廃仏毀釈の後の雪蹊寺中興の祖、山本太玄和尚
の墓です。明治三十六年遷化世寿七十八歳。


山本玄峰和尚です。
慶応元年一月和歌山に生まれ19才の頃に失明を宣告
され7回目の四国遍路の途中、山本太玄和尚に助けら
れ出家しました。各地の僧堂を巡り、大玄が遷化すると
雪蹊寺住職となり寺を復興させました。
終戦時に鈴木貫太郎、吉田茂の心の師となり日本を救
いました。
三島市龍沢寺で昭和三十六年六月三日遷化九十五歳。

雪蹊寺は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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