土佐の歴史散歩高知市南部>石丸神社

石丸神社(六体地蔵・一領具足供養の碑)

 桂浜への花街道を東に行き詰める直前に「一領具足供養の碑」「六体地蔵」があります。
 長宗我部氏の下級武士に「一領具足」と呼ばれる階層がありました。普段は自分の耕作地に居て農業を営みつつ、その傍らにわらじなどをくくり付けた槍を立て具足を置いておき、いざ合戦となるとそれらをとり戦場に駆けつけたそうです。
 関ヶ原の戦いの後、徳川幕府に領地を取り上げられることになった時、一郡でも長宗我部に残すよう願い山内氏の入城を拒んだのが「一領具足」たちの「浦戸一揆」と呼ばれています。


2000年7月15日 花街道を訪れました。


    石 丸 神 社

慶長五(1600)年関ヶ原の戦後、遠州(静岡県)掛川城主山内一豊土佐の国主となる。
長宗我部の浦戸城(龍馬館建設地)明け渡しに際し「旧主のためにせめて一郡でも」と主張し頑強に抵抗したが悉く討ち取られ、十二月五日浦戸城は接収された。
この抵抗した一領具足の二百七十三人の首は塩漬けにして十二月晦日、大阪の井伊直政のもとへ送られた。
その胴体を埋葬し後に石丸塚として祀られたところ(西北二十メートル)に地元の有志(五名)によって建立された小祠が「石丸神社」である。
昭和三十三年桂浜観光道路建設の際、現在地に移された。

  昭和六十三年十一月
        高知県長宗我部顕彰会二代目会長
                       濱口陽吉 建之

  平成十一年二月吉日 修復

 山内家の入城に抵抗した一領具足273人の首は塩漬けにして大晦日に大阪の幕府の役人
井伊直政に送られたという。なんとも生臭い時代でした。


この後ろを桂浜、浦戸大橋へ上る観光道路が昭和33年にできたのですが、その工事のため
そこにあった273人の胴体を埋葬した塚および祀る石丸神社はここに移転させられました。


 この六体地蔵は昭和14年12月、野市町の吉祥寺住職が一領具足の供養をするため、野村
茂久馬翁らの援助を受け、広く浄財を募り建立したということです。

 それぞれ「人間道」、「餓鬼道」、「畜生道」、「地獄道」、「天道」、「阿弥陀道」の六道をあらわし、
「地持地蔵尊」、「陀羅尼地蔵尊」、「法印地蔵尊」、「鶏亀地蔵尊」、「法性地蔵尊」、「宝性地蔵尊」
だそうです。


昔のかがり火を用いた灯台の跡?もありました。


その傍らにあった「一領具足供養の碑」 
 

一領具足の碑と六体地蔵は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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