野中兼山(けんざん)元和元年(1615)〜寛文3年(1664)は、諱は良継(よしつぐ)、通称は伝右衛門、主計、伯耆など。号は兼山、高山、明夷軒ですが、現在高知では野中兼山と呼ばれています。
本山に領地をもらっていた野中兼山の本山土居跡は現在上街公園になっています。
兼山の父は藩主一豊に見込まれていたのですが、早くに亡くなったので、小倉少介の世話で父の従兄弟の直継・市夫婦の入り婿となりました。
学問は、上の坊において室町時代から土佐に根付いていた土佐南学を小倉三省、山崎闇斎らとともに谷時中に学び、義理名分と実践を重んじる態度を身につけました。兼山の母が亡くなったときには儒教の教えに従い土葬形式で墓を造り、京都で大成していた山崎闇斎に頼み、その場所を帰全山と名づけてもらいました。
二代藩主忠義のとき、わずか17歳の兼山は執政という役目に取り立てられています。それからほぼ30年間藩政に尽くし、土佐藩の基礎を築いたのです。兼山は、「たとえ百歳まで生きたとしても後世の人々に思い出されるような仕事をしなければ長生きをした甲斐がない。」と口癖のように言っていたそうです。自分に厳しく生き、今、苦しくてもなんとしても農業、産業の基盤を築いておけば、領民の生活が安定・向上するだろうと考えていたようです。
兼山の行った事業の主なものを上げてみますと、
・原野の開発
・新田の開発
・河川と港湾の修築
・山林の保護育成
・綿、煙草など特用農作物の栽培促進
・養蜂、薬草栽培、ハマグリ養殖、捕鯨漁法の漁法の改良
・新田開発などに関わって郷士の取り立て
・藩の利益を上げるため専売制を実施
など、多岐にわたっています。
これらのうち、おもな河川と港湾の修築は次のようなものです。
・本山樫の川、木能津川、行川、森川、相川の堰と溝
・物部川の山田堰、父養寺井筋、野市井筋
・仁淀川の八田堰、弘岡・諸木井筋、鎌田堰、鎌田井筋
・宿毛松田川の河戸堰
・吉野川宮古野溝
・四万十川・中筋川の改修
・津呂港、手結港の掘削
・柏島港、浦戸港、室津港
こうした改革を続け藩の基盤整備に力を注いで来たのですが、厳しい労役や商人の利益を奪う物品の専売制、新規郷士の取り立てなどから藩内の不満分子が兼山の失脚を狙っていました。藩主も兼山をとりたてた二代藩主忠義から三代藩主忠豊に代わり、藩主の信認が薄らいでいました。兼山は隠居を願い出ていたのですが、そんなとき隣藩との間で柏島の領地争いが公儀の場での裁定になり、出て行った兼山の辣腕ぶりを幕府が知り警戒されるところとなりました。その後、深尾・孕石・生駒ら反対派家老の計画で、表向きは藩内領民を疲弊させたという理由をつけ陥れられました。
土佐山田の舟入川沿いに蟄居させられ、その没後には一族断絶のため、家族は男子が死んでしまうまで宿毛に幽閉されるといった残酷な仕打ちを受けました。40年後、最後の男子が亡くなるとやっと解放され、娘の婉は高知に戻り医者をして暮らすかたわら扶持を受け、旧臣古槇氏らの援助により、父や祖父、乳母の墓を筆山に、幽閉遺族の墓を宿毛東福院に建て、土佐山田には野中神社を建てるなどして供養を続けました。
現在は名誉を復活されて、五台山には県社格の兼山神社も建てられて多くの県民に親しまれています。