2011年12月15日(木) 山本泰三著「土佐の墓」を提げて小倉三省の墓を訪ねました。
五台山の東側にある青柳中学校が目標です。
青柳中学校の中程から西に向かっている道を山際まで進むと、民家の並びの中に上に伸びる石段があります。
ここから尾根まで登ります。
昭和42年に高知市保護史跡に指定されていて、標柱や説明板も建てられています。
向かって左に小倉弥右衛門三省の夫婦墓があります。
頌徳之碑が中央にあります。
向かって右にあるのは父の小倉少助政平の墓です。
「少助は二代藩主山内忠義の信頼を受け、野中直継と共に元和改革に参加、
土佐の林産物に着目し50年を期限とする輪伐法を提言している。
承応3年(1654)3月6日に73歳で逝去。」(高知市教育委員会)
また、「近江の人で、山内一豊に従って入国、雪蹊寺の天室に南学を学び極めた。」(土佐の墓)
「子の小倉三省は野中兼山や山崎闇斎と共に谷時中から儒学を学んだ。
父少助と共に兼山を補佐して開拓事業などに尽力して功績をあげた。
父の死を深く嘆き、あとを追うように承応3年7月15日に51歳で逝去。
墓は儒葬形式をもって建てられている。」(高知市教育委員会)
「三省の温和は兼山の激しさを補い、兼山の土木事業を長続きさせた」(土佐の墓)
少助の墓の右側には、筆山にあった先祖の奥加右衛門政景夫妻、
小倉少助妻(三省の母)、後妻(政次の母)などの納骨堂がありました。
墓所が筆山公園の道路建設のため高知市に接収されたのでここに
改葬したそうです。
三省の元妻の墓などもありました。
ほかにも後ろ側にはいくつかの墓石が並んでいましたし、
下の段にもいくつもの子孫の墓がありました。
墓所の後ろには高須の街並みが見えました。
小倉家の墓所のすぐ前には高畠家の墓所がありました。
高畠彦平宣省の墓です。
「高畠彦平宣省は小倉少助の二男で、少助の生家を継いで。
高畠姓を名乗る。」(土佐の墓)
ということで、養子のやりとりがあり、小倉家と高畠家の
墓所が隣り合わせなのがよくわかりました。
東陵の父の高畠小平次正流の墓です。
土佐に石洲流の茶道を広めた茶人です。
一番奥にある、高畠彦平貞雄夫妻の墓です。
東陵と呼ばれた能書家で江戸の平林淳信に書を学び印可を受け多くの門人を指導しました。
小倉三省の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。