2002年3月11日 野中兼山の娘、婉が父のため建てたと言われている野中神社を初めて訪れました。
2013年2月26日 撮影のため再び訪れました。
2002.03
土佐山田町の平野西北部を流れる土生川南側にある野中神社です。
2013.02
野中兼山は山内氏の土佐入封後まもなくの山内二代藩主忠義の信望を得て農地の潅漑工事や港の掘削工事などで藩につくした家老です。
藩主が代わると、権力を振り回し領民からの搾取がひどく、領民が疲弊したという表向きの理由で家老職を追われ、お家断絶となりました。
実は、沖の島問題を解決に導く兼山の優れた能力を怖れた幕府からの指示だったといわれています。
男子が全員死亡するまで40年にわたる宿毛での幽閉の生活を終え、高知に戻ってきた婉は
旧臣に助けられながら朝倉に住まい医業で身を立てました。
野中家断絶により祖先を祀る子孫がいなくなるため、宝永5年(1708)、
家宝を売り土佐山田の地に父を祀るこの野中神社を建立し、筆山に墓所を作ったそうです。
説明板です。堂の設立由来が示されています。
2013年2月26日(火)
ここには、従来の説明板がありましたが、久し振りに訪れてみると、以下の祭文が追加されていました。
香美市教育委員会が郷土史家の依光貴之先生に依頼して、婉がしたためた祭文(漢文で書かれている)を読み下し文にして掲示してありました。
じっくり読むと感銘を受けたので、多くの人に読んでもらいたく、ここに掲示させていただきます。
祖廟祭文 慎みて告げ奉る。配所四十年、伯兄・仲兄・叔兄歿す。季弟毎(つね)に吾に語りて曰く。先人なす所之神主、吾が命終わらば、倚(よ)るべき無きを如何(いかん)せん。若し野中氏族の倚るべき有らば、その時は安東氏に訴えんと。吾対(こた)う。言う勿(なか)れ、汝幸いにして赦(しゃ)を得ること有らば、子孫祭祀を続(つ)ぐこと有るべし。若し夭にして亡ずれば遁(のが)るる所無し。道を知らず義を知らざる者、豈(あに)之に倚らんや。癸未(みずのとひつじ)の六月二十九日、季弟死す。其の時老母、天を仰ぎ地に臥し、涕(なみだ)を流して曰く、生きて益(えき)無し、共に死すべし、と。吾対う、共に死するは安し。然(しか)らば季弟一世の不幸、生まれて五月に充たずして配所に遷(うつ)され、生平樊籠(はんろう)之身たり。今歿す。共に死せば、誰有りて尸(し)を隠し死跡を清めんや。又神主之事如何せん。暫(しばら)く時を期して其の命を聴かん。天吾に生をうれば必ず赦を得べし。然らば他所に移りて其の時を期し、祖廟(そびょう)を造らんと。 九月十有四日夜赦を得。其の時既に訟を為す、古臣井口氏の家に行かんと。則ち志を得。井口氏書を通じ、悦びて老人三十里を遠しとせず来る。既にして宿毛を去る時、貧乏の家共に去らんと欲する者女子三人、貧窮の期に及んで恩を忘れず、誠に義有りと言うべし。正運(しょううん)院、変に処(お)ると雖(いえど)も、温にして順朴、直にして寛、卑女に到るまで自ら生める子の如くし、家内の者、正運院を見ること父母の如く之を慕えり。乳母、壮年の時伯兄之を嫁(か)せしめんと欲す。乳母涙を垂れて従わず、四十年改めず。女子の身の、変に居りて丈夫に劣らざるなり。我、朝倉に於いて扶助米の事を聞く。吾、涙を流して曰く、豈受けんや、と。或人怒りて曰く、老母有り乳母有り、必ず辞すること莫(なか)れと。此時粉縕して焉(これ)を辞するを得ざりき。 時に宝永五年戊子九月二十有二日、婉志之祖廟成就し、神主を安置せしむ。向来(こうらい)、古槇(ふるまき)重矩(しげのり)なる者、土州香美郡之山田村に住めり。重矩家地(やじ)あり、東北之間四方三間、價(あたい)を以て永代に之を買い求む。重矩家より艮(うしとら)に当たる。祖廟一間四面、之を造営す。並びに祭田五反、須江村御蔵入にあり。(ホノギ、カシワギ、ムクノキ。)賎女の後、重矩が子孫今の如く祭事を為すべし。又破損の為此の如し。祭事は九月十有一日、強飯(きょうはん)・醇酒(じゅんしゅ)を以て之を祭るべし、必ずや誣(し)い枉(ま)げて神奠(でん)を汚(けが)す勿れ。僧尼を恃(たの)む勿れ、古槇の子孫をして、主(つかさどら)しむべし。今日謹しみて強飯・醇酒を以て霊前に奠し、以て野情を伸ぶ。又古臣之者、勲功に報いんと欲するに、予志を得ず。忠誠之者下に記し並べ、敢えて以て鬼神に告ぐ。 古槇与三右衛門重矩 此者の父は八左衛門、忠有り義有り。其の長理左衛門、変に及び君臣之義を重んじ二君に仕えず。其の次子次郎八重固、主君之変に会い又死を哀しみ殉死す、実に勇壮なるかな。世を挙げて殉死を為す者有るも、本より同日に語るべからず、鬼をして泣かしむべし。代々の忠臣、此(ここ)に於いて神主之右に位せしむ。古槇与三右衛門重矩、父兄の志を継ぎ我に事(つかえること)祖父の如くす。初めて之を見、我忠臣之家為(た)るを慮(おもんばか)りて祖廟の事を語る。曰く、吾素より百銭之儲(もうけ)無し。先人愛する所の重器有り、之を以て祖廟を造らんと。曰く、諾(だく)。始終懈(おこた)らず、一人之を司り巧を成す。予、祖先を思うと雖も、重矩に倚らずんば如何にして之を成就せん。古今官禄の為め仕うる者多し。貧窮之時主君を愛する者、吾古槇之家に於いて之を見る、忠なるかな。 井口長左衛門正康 井口久右衛門長子なり。其の気量勇者なり。顎立(がくりつ)之時を述べ、又其の年八月貶(へん)せられて本山を出て其に従う。世に交わるの志無く、躬耕(きゅうこう)四十年、其の間能(よ)く貧窮之難に耐えたり。今妻子と別れて我に事(つか)え、一日として外に宿せず。夜を以て日に続(つ)ぎ、薪水窮労之難誠に実るかな。 古槇弾七重中 重矩長子なり。我に仕えて又親切なり。若年為(た)りと雖も其の気量他に異なり、父母に事えて人品実なる者なり。 伊藤益右衛門重教・伊藤勝兵衛重剛・伊藤才蔵重言 兄弟は先人鐘(しょう)愛之臣なり。兄弟は大変之時に当たり、顎立の日より命有りて昼出入を緩(ゆるやか)にせずして茲(ここ)に四十年なり。重剛早く死し、次子益右衛門、才蔵と同に其間密かに先人の封塋(ほうえい)を掃除して惰らず。忌日には夜間墓前に奠し、暁天に到りて帰る。時に内外の族人・故旧之家多く、嘗て一人として墓前に拝する莫(な)し。嗚呼忠なるかな。重剛之子二人あり、長は習伯、能く父の志を継いで怠らず、不幸にして早世す。次子は重教、又能く其の志を継ぎ今に至ること一日の如し。家を挙げて忠なる者と謂(い)うべきなり。 井口段之丞正基 正康長子。予、宿毛より来たりて柴の庵を結ぶの時、日を以て夜に続ぎ、力を厭(いと)わず匹夫之業(わざ)を為す。貧窮為(た)りと雖も志を加え功を成せり。 近藤務右衛門安興 此の者近藤六郎兵衛次子にして、井口正康妹の子なり。柴の庵を結ぶの時、正基と同に匹夫之業を作し、清貧なりと雖も志を加え功を成せり。 刈屋喜兵衛 此の者、一明公に仕えし處の者なり。主君を慕い、大変之時に及び、向来恩義を擔(にな)う者却って不忠不義を致す者多く、世を挙げて衆人此(かく)の如し。然るに此の者二心無き者なり。四十年配慮之地に問を成し、其の訪う所実なり。世間訴えて言う有らば、彼の者、道を以て此の如しと、奇なるかな。 野村与三右衛門 父野村甚兵衛重正の子なり。其の重正、人品他に異なり、先人撰挙する所の士なり。其の気量剛毅正直、雪霜之操を守る者、重正に於いて之を見ること始終なり。配所に於いて病死す、痛ましいかな。与三右衛門、父の志を続ぎ柴の庵を結ぶの時志を加え、又祖廟を造る之時に至りて志を呈せり。 婉、女子の身為(た)りと雖も、鬼神に事(つか)うる所豈隔て有らんや。尚(こいねが)わくは饗(う)けよ。 (「皆山集」所収の写し(漢文)を読み下し文に改めたものです。宝永五年九月二十二日の祖廟落成に際し、婉が読みあげ、その原文を奉納しました。) この祭文は、野中兼山の四女婉が認めたものです。原文は漢文ですので、依光貴之先生が読み下し文にしてくれたのを活用させて頂きました。 寄贈 平成二十四年十月二十三日 野中婉を顕彰する会 公益法人「こうちNPO地域社会づくりファンド」基金運用 香美市教育委員会 |
通称「お婉堂」は老朽化したため、平成13年に建て直されました。
うき雲はいつしか晴れて野に山にみのりの秋を照らす月かげ 婉のうた