土佐の歴史散歩>宿毛市>東福院と山内(伊賀)家、野中兼山遺族の墓所
2003年3月、そして10年後の2013年2月14日(木)にも訪れました。
東福院入り口です。小さい石柱に山内(伊賀)家、野中兼山遺族の墓所という案内があり、
すぐ脇には詳しい矢印付きの案内板もありました。
東福院の山門です。
宿毛出身の冨山房の創始者である坂本嘉治馬が寄進しています。
江戸時代、初代宿毛山内氏によって再興されました。
山門を入り左の西山に登ります。
宿毛山内(安東=伊賀)家の墓所です。
墓所の最前面にある立派な五輪塔には表示も説明もありません。
一族先祖代々を祀るものか、あるいは可氏の父の郷氏を祀るものか想像させられます。
山内可氏の墓です。
可氏は1571年に岐阜県で生まれました。
父は美濃国北方城主の弟の安東郷氏であり、母は山内一豊の姉、通です。
北方城は敵の攻撃を受け郷氏は戦死しましたが、母と可氏は逃れ、当時長浜城主であった一豊に救われました。
土佐城主となった一豊から宿毛を与えられ宿毛山内氏の礎を築きました。1629年没。
五輪塔の上の部分だけのようなのですが、地震で損壊してしまったのでしょうか。
可氏の墓の左側にあるのが可氏の妻の墓です。
可氏の墓の右側は野中兼山の正妻であった市の墓です。
可氏の孫なのでここに埋葬されました。
野中兼山の養母よめの墓
野中玄蕃の妻ですが可氏の子ですから同じ墓所に埋葬されているのでしょう。
可氏の墓所の後には野中兼山遺族の墓地がありました。
婉の墓は高知市筆山の兼山の墓所にあります。
よねの墓は不明だそうです。
将と寛の母美濃部氏の墓です。
長男清七の墓です。婉が建てました。
長女寛と三女将です。
三男業継と四男行継です。
次男明継です。
野中家遺族の墓の全景です。
谷を一回りした東福院東山の上に宿毛山内(伊賀)家の墓所があります。
大きい墓がたくさん立っていますが、地震で倒れ崩れたものも中にはありました。
ここには二代定氏以降が埋葬されているそうです。
左が二代定氏の墓です。右は三代節氏の墓です。
後方にも伊賀家の人々が並んでいます。
伊賀陽太郎の墓です。
林有造、譲治の墓が伊賀家墓所の入り口を守るように並んで立っていました。
死んだ後も主君をお守りしたいという遺言があったのでこの場所に許可したそうです。
安東可氏、野中兼山妻市、野中兼山遺族、林有造・譲治の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。