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野中兼山墓所

 広大な荒れ地であった土佐山田町および野市町は、野中兼山によって行われた物部川の水を利用した灌漑工事により、現在の農業地帯としての地位を築くことができました。春野町も仁淀川からの井筋により、現在もその恩恵を受けて農業が盛んです。
 領地として与えられていた本山町には、城を築いていると間違えられたほどの大工事をして母の墓を作り祀った帰全山公園があり、ここにも兼山の作った井筋があります。
 高知県内多方面にわたり過酷なほどの領民の労力による灌漑工事を行い、土佐藩の石高を増やし権勢を誇った兼山ですが、あまりの勢いに恐れをなした他の家老達、及び徳川幕府により兼山は失脚させられ、彼が開発を行った土佐山田町の舟入川端が終焉の地となり、現在、兼山の墓所は高知市の筆山南斜面(筆山トンネル東口の上方)にあります。
 兼山の死後、他の家族とともに娘の婉はわずか3歳の時から40年間という長い間宿毛に幽閉されました。その後、高知市朝倉において医業で身を立てる一方、祖先を祀る野中神社(お婉堂)を土佐山田町に建てました。
 土佐山田町にはまた、婉が幽閉されている間からずっと師として頼りにしていたという、学者谷秦山重遠の墓所もあります。
 なお、高知市の五台山には別に兼山を祀る兼山神社があります。


2002年3月26日 初めて前田秀徳先生に案内していただきました。


高知市の筆山南斜面です。
左上の峠が筆山ドライブウエイから皿が峰方面とこちらの南斜面へ分岐したところです。
一番手前の黒っぽい階段が野中家墓所の階段です。


野中家墓所です。
左に中島平太郎氏の改修碑、右に顕彰碑が建っています。


最初に来てから10年後の2012年12月22日に訪れると新しい案内板が建てられていました。
平成23年3月に野中婉を顕彰する会がわかりやすく説明板をつくっています。


これでどのお墓が婉さんで、どのお墓がお母さんかなどわかりやすくなりました。


墓所の全景です。


兼山の養父、玄蕃直継の墓です。婉が建てています。


野中伝右衛門良継(兼山)の墓です。婉が建てています。


兼山の墓は墓所の中心にあります。


野中主計益継の墓です。婉が建てています。


野中 婉の墓 後號 安履亭と彫られています。
享保10年(1725)没、行年65歳。


野中清七の生母、つまり婉の母になります。
「弧哀女婉泣植焉」(こあいじょえんないてこれをたつ)と左に彫られています。


野中太内は永井氏の三男として生まれ、断絶を免れた系統の
野中持継の養子になりました。
吉田東洋に学び、東洋の公武合体論を頑なに信奉し、倒幕に
反対しました。「新おこぜ組」を主導し、戊辰東征への出兵を拒否。
結果、容堂の処罰を受け、小八木正躬らと切腹しました。
兼山とは時代の異なる墓ですが、ここにありました。


乳母信婦墓 婉が建てています。


墓所左下段にある家臣の古槇次郎八重固の墓
兼山の小姓となり、終焉間近の兼山に奉公の誠を尽くしました。
兼山の遺骸を城郭の兼山邸に運び葬儀を行おうとしましたが、
藩吏にとめられ、古槇邸に運び葬儀を済ませここに埋葬しました。
埋葬後、次郎八重固は兼山の墓前で殉死しました。

2003.03.30
慈仙院の墓(正保3(1646)没93才)
山内家墓所の隣の筆山登山道を登り始めるとすぐの右側の墓所に
初代藩主山内一豊の妹の慈仙院(合(ごう)姫)の墓があります。
合姫ははじめ野中兼山の祖父良平(よしひら)の妻となり良明(よしあき)を生みました。
良明の子が良継(兼山)です。
良平が死んだ後に合姫はその弟の益継の妻となり、直継を生みました。
兼山は父良明の没後、玄蕃直継の養子となり成長しました。
この墓も婉が建てています。

2009.12.27
筆山トンネル東口です。上には公園があります。


野中兼山公園らしい。


公園からは兼山の墓所にまっすぐ向かう階段が見えます。


トンネル付近にある筆山・皿ヶ峰・南嶺のハイキングコース案内板です。

野中兼山・婉・太内などの墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
野中兼山の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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