2002年3月12日
野中兼山終焉の地は土佐山田町中野です。
兼山は藩政初期の山内忠義・忠豊の時代、藩の財政を助け潤すため県下各地の用水、港湾などの開発を強力に推し進めてきました。
しかし、余りに領民をこき使い、また、独裁といわれるほどに権勢が過ぎたので周囲から疎まれ、家老職を追われて隠居とされました。
兼山はひとりここに蟄居となり、自分の開拓した平野を見ながら48歳で生涯を終わりました。
彼の死後、一家は男子が絶えるまで宿毛に幽閉、お家断絶となりました。
生活の跡は兼山が使ったと言われる、形ばかりの井戸があるのみです。