2002年10月6日 初めて訪れました。
農地の開墾や港の建設にすばらしい腕をふるった土佐藩家老の野中兼山でしたが、その権勢をおそれられ失脚、お家断絶ということになり、家族は妻の実家である宿毛に幽閉されました。その後、最後の男子が亡くなるまで40年間の幽閉の後、婉女ひとりが高知に戻り、幽閉中に谷秦山から学んだ知識をもとに朝倉で医師として生計を立て暮らしたといいます。
「みやのおく」電停から国道をわたりそのまま見上げると
古いアパート?の側に似つかわしくない碑が立っていました。
他人の庭に入っていくようで不安でしたが、階段を上がって石垣の上に出ました。
立派な台座の上に立っていますが、現世の生活の臭いにまみれています。
野中兼山や大原富枝のファンが見たら嘆くでしょうね。管理はどうなっているのでしょう。
>>>最近通りかかって見たらずいぶん周りがきれいになっていました。(2007.1)
コケで黒くなり読めない部分がありますが、
碑の周囲のすべての面に文字が彫られています。
碑面の読み下しの説明板があったのかなかったのか覚えがありません。
秋の日は沈むのがはやくなり、もう日暮れです。