板垣退助像
土佐は「自由は土佐の山間より」という有名な言葉があるように、庶民のエネルギーで運動を起こし、自由と平等を求め、庶民の参加する政治体制を作ろうとした土地です。高知市には市制100周年を記念し建設した、自由民権記念館があります。
明治維新は、坂本龍馬の仲介で薩長土が協力して封建的な江戸幕府を倒し新しい政府を作ったと思ったのですが、明治新政府は徳川家から政権を奪っただけで相変わらずの独裁専制の政治でした。
仕事を奪われた全国の士族の不満から、武闘派は西郷軍などとなったのですが、言論派が土佐の板垣を代表とする民権運動となりました。専制的な明治政府に対して、言論を武器に今で言う基本的人権を獲得し、民主主義体制とすることが目的でした。
士族だけでなく、新しい課税により困窮した農民も各地で一揆を起こしました。中でも土佐の農地は山内氏統治時代には本田、新田という区別があり、明治政府の地租改正が土佐の慣習を無視したやり方だったので、農民は大変困り怒りました。民権家はこれを助け政府に迫り租税の軽減につながったので民権運動は農民の参加を得て広がりました。酒税などの軽減にも力になったので商人にも参加が増え、激しくなりました。
次第に全国的な運動となった中で、イギリスやドイツなどを参考に憲法を作り国会を開催するように政府に要求することが始まりましたが、明治政府の民権運動への弾圧や分裂工作により一旦は崩壊してしまいます。
その後研究が進み、再び運動は全国的な盛り上がりをみせ、求めていたものの一部である憲法発布、議会の開設となりました。しかし、この帝国憲法では国民の権利は天皇が与えた狭い制限内での権利とされてしまい、自由民権運動の求めた人民本来の「基本的人権」は、太平洋戦争敗戦後の日本国憲法によりやっと得られました。植木枝盛の憲法草案はこの日本国憲法作成時に多くの部分が取り入れられ生きています。
<史跡等> 中央公園東入口近くにある立志社跡碑と近くの回天社跡碑 初代立志社社長として自由民権運動を広げ、後に衆議院議長となる片岡健吉の銅像 坂本直寛が弁舌をふるっていた獄洋社跡の碑は上町1丁目北の第四小学校脇に 「自由は土佐の山間より」にふさわしい旧土佐山村の山間にあった山獄社跡 板垣退助の生誕地碑、邸跡碑、そして高知城に立つ銅像 開成館跡には板垣退助の活動を讃える「憲政之祖国」の巨大な碑が 板垣と一緒に愛国公党を作った後藤象二郎の生誕地 現在の憲法に近い憲法私案を作った植木枝盛の生誕地、住居跡 自由民権で活躍し、北海道開拓にも携わった坂本直寛 三大事件に関わり、後、初代高知市長として市政の確立に尽くした一圓正興 三大事件に関わり、後高知商業学校を創立、初代校長となった横山又吉(黄木) 自由民権運動の理論的指導者といわれる中江兆民の誕生地 フルベッキに英語を習っていた馬場辰猪は板垣の外遊を批判してアメリカへ 植物学者の牧野富太郎も自由民権運動に関わっていた。 大隈重信の下で立憲改進党を作ったり、早稲田大学を創立した小野梓 西南の役に呼応しようとした林有造。 民権運動家であり実業家であった竹内綱は第一回衆議院議員に当選した 民権婆さん楠瀬喜多、女性弁士として活躍、女性参政権を獲得した 「汗血千里駒」は坂崎紫瀾が書いた自由民権運動のための小説だった 伊藤蘭林の子徳敦は立志社が出来た後、佐川に南山社を作った。 <墓所> 板垣退助墓所 片岡健吉墓所 楠瀬喜多墓所 林有三・譲治墓所 幸徳秋水墓所 一圓正興墓所 藤崎朋之墓所 田岡嶺雲墓所 |