2008年9月30日 高知市土佐山(旧土佐山村)の山獄社跡を訪ねました。
敷地入り口にあった石碑に刻まれた説明文を紹介します。
自由民権結社「山獄社」跡 山獄社は、土佐山村の民権結社であり、当村からは多くの民権家を輩出している。前身はこの場所で 和田波治、千秋父子が始めた寺子屋的なもの。その後門下の高橋簡吉、長野源吉らが、「夜学会」を興 し、明治15年海南自由党成立の頃、民権結社に発展、名称を「山獄社」とし、明治22年2月26日以降「山 獄倶楽部」と改めた。土佐山村は明治15年11月12日に県下の民権家、総勢2千人が桧山で巻狩大懇親 会を行ったことや、秩父事件の指導者・落合寅市が高橋簡吉の家で匿われていたことでも知られている。 現在、当地には民権期に作られた「山獄倶楽部の旗」が保管されている。 (藤原和雄 記) |
西川集落に入り間もなく道路右手に西川公会堂があり、その奥に石垣が見えます。
石垣の上に建っているのが、山獄社であった和田邸跡です。
坂道を上がり詰めた右手には自然石の石碑がありました。
多くの民権家が出入りしたであろう玄関です。
裏側です。
この和田邸については、別の碑文がありました。
和田三郎・生家 和田三郎(1871〜1926) 自由民権家・言論人 明治4年6月22日、医業の千秋を父、母は土、その三男としてここに生まれる。高知共立学校で学び、 のち植木枝盛らと接触、明治学院を卒業して土陽新聞記者となり、板垣退助監修「自由党史」を執筆。 孫文らの中国革命を支援するために宮崎滔天、菅野長知らと革命評論社を創立、滔天が編輯人の「革 命評論」の同人となる。また、板垣退助がおこした「社会政策」の発行兼編輯人にもなり、板垣の秘書と して活躍、筆まめなことで知られたが、大正14年中国旅行中、病を得て帰国、翌年没した。55歳。 (藤原和男・記) |
池のある風流な庭です。
議論が交わされ、杯が行き交ったであろう座敷です。
西川川を挟み対岸の山々が見える。
植木枝盛の「自由は土佐の山間より」という言葉は、ここのことではなかったか。