2013年3月6日(水) 昨日に引き続きいくつか取材先を用意して、高知から東にやってきました。
そのうち、古槇重矩の墓は、山本泰三氏の「土佐の墓」に掲載されていますが、場所については「土佐山田町北組西の鍋山墓地の南尾根」と書かれているだけです。1週間ぐらい前に野中神社を再取材したときに通った場所が北組西だったので、そのあたりだと見当をつけて地図で探したのですが、鍋山墓地は見つかりませんでした。
今日は秦山公園を拠点にして現地のお年寄り数人に鍋山墓地を訊いてみましたが、知らない人ばかりでした。結局地元の教育委員会の文化財担当の若い方が香美市史談会の会長さんを紹介して頂き、口で説明してもわからないからと一緒に歩いて頂きました。
墓所全景です。石ぐろの墓がほとんどで、3基だけ墓石が建っていました。
古槇重矩の墓です。右側面には享保五庚子年(1720)
左側面には正月十七日とあります。
父は古槇八左衛門重利、兄は野中兼山が筆山に葬られたとき、殉死した次郎八重固です。
40年を宿毛幽閉で過ごし戻った野中兼山の娘婉は祖廟建立を重矩に相談しました。
重矩と重矩の長男重保など古槇一族の援助により兼山祖廟(野中神社・お婉堂)ができました。
戒名が刻まれていますが、その脇に行年四十四歳 古槇重保とあります。
右側面には明和七庚寅夭(1770)、左側には七月十六日とありました。
また、後面には西野地村庄屋○内 岡本伴七と刻まれていました。
1770年に44才ということは1726年生まれ、重矩が亡くなってからの
養子だったのでしょうか。
古槇重中妻の墓です。重中の墓はどれかわかりません。
右側面には享保三戊戊十二月十日、左側面には池知氏とありました。
山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。