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源希義終焉の地


 平清盛により伊豆に流されていた源頼朝が挙兵すると、土佐に流されていた希義も合流しようと厳しい監視の中、介良を出発しました。
 途中平氏方と交戦して敗れ、源氏方であった夜須氏を頼りにこの地まで来たとき愛馬を乗りつぶしてしまい、平氏方の平田俊遠蓮池権藤家綱に討ちとられてしまったそうです。その馬の鞍を掛けて休ませていたのがここの岩だと伝えられているそうです。

2004年11月16日


夕方の南国市立鳶ヶ池中学校の前です。


門前から伝えられる岩の方(白い立て札が見える)を見たところです。


「源希義公を顕彰する会」が説明板を建てています。


2007年3月21日の「希義の鞍掛けの岩」です。
道路工事で削られてしまったのか、埋まってしまったのか、よく見ないとわかりません。

平家が落ちぶれていたといえ土佐ではまだ平家方が力があり、味方は少なかったのに
兄頼朝を応援するため、実の弟希義は遠い土佐にあっても源平の戦いを起こしたのですね。
希義の墓は高知市介良の西養寺跡にあります。

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