土佐の歴史散歩高知市東部>源希義墓所

源希義墓所

 高知市介良には介良富士と呼ばれる山(東面は潮見台ニュータウン)があり、その北麓には朝峯神社や源希義(まれよし)の墓所があります。墓所の前の広場には大きい説明板があり、以下のような説明が記されています。

 平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源義朝の子頼朝(13)は伊豆へ、牛若(1)は鞍馬へ追いやられますが、希義(3)も沼津で捕縛されこの介良の地に流されました。当時は平氏の衰退期にさしかかっていて、近くには源氏方の夜須氏がいました。厳しい監視の中、希義は1182年に蜂起したものの夜須氏の援軍間に合わず、南国市鳶ヶ池中学校のあたりで平氏方の平田俊遠蓮池権藤家綱に討ち取られました。その子希望(まれもち)は頼朝の庇護を受け、その後裔は戦国時代土佐の七守護の一人、春野町吉良氏に続きます。


2003年1月11日 介良を訪れました。


高知市介良本村の「JA高知市」西にはこんな碑がありました。
 気良(きら)->介良(けら)と変遷したようです。
 これより数百m東に進むと「朝峯神社入り口」の表示が右側に見えます。


介良川南の入り口
朝峯神社から介良川の北岸にもどり、西に進み二つ目の橋で左折、南岸に渡り、右折して進みます。
堤防上の少し広くなった所に通行の邪魔にならないように車を置いて数十m歩くと左手の山に入る道があります。
ここを入ると・源希義墓、・西養寺跡、・小笠原和平墓、・武市瑞山姉美多墓があり、左手には花熊城跡があると
いう小さな案内板が立っています。


立て札から少し進むと前方に碑と左にのびる石垣が見えます。
希義の菩提寺として頼朝により保護されていた西養寺がかなり大きな寺だったことが想像されます。


小松石に刻まれた十八代山内豊秋氏による歌碑がありました。
入り口からまっすぐ進むと山際でこの石碑に行き当たります。
山内氏は藤原氏の出で、源頼義の郎党七騎のうちの一人。
その三代後の俊通が北鎌倉の山内庄を領し、山内姓を名乗ったそうです。
 ここを左手に見ながら山に入り、右手に進むと源希義墓です。


うっそうとした林の中を進むと、石段の上に希義の墓所がありました。


源希義墓(西養寺跡無縫塔)
 高知市教育委員会により有形文化財として1994年に指定された無縫塔。
 「吾妻鏡」に、西養寺が希義の菩提を弔うために建てられたこと、この地が「西養寺文書」により西養寺跡と推定
できることから、地元ではこれを源希義墓として祀っていることが説明されています。


墓の上には希義の魂を鎮める神社が建てられていて、
平成二年には八百八周年命日祭が行われたようです。


命日祭の写真です。




2003.5.21関東に在住する友人からメールで上の2枚の写真が送られてきました。
鶴岡八幡宮の近くにある源頼朝公の墓所を訪れた際に高知の地図があったのでとても驚いたそうです。
写真は頼朝公・希義公の墓の土と石を交換して兄弟を再会させたという説明板と、それがある頼朝公の墓所。


 こんな僻遠の地土佐でも源平の争いがあったのですねえ。
 しかも源氏の中心に近い人物がここにいたなんて。
 勉強になりました。帰りに海に出ると、きれいな夕日が見えました。

源希義の墓・花熊城跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。
源希義の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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