土佐の歴史散歩高知市北部>谷家墓所

谷家墓所


2013年4月10日(水) 秦地区コミュニティ計画推進市民会議の「ふるさと発見歩いて見!」という秦山の史跡を紹介する小冊子と「土佐の墓」を提げて、秦ふれあいセンターに車を預けて秦山を歩いてきました。


秦山への北の登り口から上り始めると、高知市教育委員会が昭和56年5月に建てた看板が
ありました。
谷丹三郎重遠は土佐山田にも住みお墓は土佐山田にあるのですが、元はここに屋敷を構えて住んで
いたので「秦山」という号をつけたのですね。野中兼山の遺された娘、婉のよき支援者でもありました。


谷秦山の屋敷跡はどこか?よくわかりませんでした。


さらに登っていくと谷家特有の自然石の立ち並ぶ墓地に行き着きました。


反対側(南)から見た全景はこんなふうです。
ここからはネット上にある神別 谷氏系図を頼りに墓石を表示したいと思います。


「谷重正妻野村氏墓 宝暦十庚辰 七月朔日」
重正は谷重遠の兄弟ですが、ここに墓はありません。
重遠は別家を立てましたから、重正が谷家の本筋になります。


「谷甚兵衛大神重敬 宝暦元辛未(1751)閏六月廿五日」
重敬は重正の子。系図では神之丞となっていますが、墓石は甚兵衛でした。
谷家の祖先は大和国三輪谷から発祥し、「大神(おおみわ)」を姓としていました。


「谷重敬妻中山氏 明和六己丑(1769) 十二月廿九日」
谷重敬の妻です。


「谷重敬女福留氏妻 宝暦十二壬午(1762)九月十三日」
系図には重敬に女子がいたことは書かれていませんが、墓石がありました。


「谷神之丞大神直樹 天明七丁未年(1787)七月九日」
重敬の子で直樹は系図では神之丞となっていますが、墓石は甚之丞です。


「谷直樹妻北原氏 安永八己亥年(1779)八月八日」
直樹の妻です。


「谷直樹後室墓 天保九戊戌年(1838)七月廿三日志和氏二女」
直樹の後妻です。


「谷神兵衛大神棟正墓 (裏)天保三年六月五日卒」
直樹の長男です。


「大神棟正室墓 (裏)文化十年癸酉七月三十日卒 谷好井長女」


「大神棟正妾墓 明治四辛未年(1871)五月二十五日卒」


「谷良作秋實墓 (裏)文政三年庚辰九月廿五日卒」
長男の棟正に子ができなかったのか、秋實が家を嗣いだようです。


「大神秋實妾墓 慶應二丁卯年(1866)四月二十三日卒」
秋實は妻を娶らなかったのでしょうか?妻の墓はありませんでした。


「谷甚左衛門重昌墓 (裏)文久二年(1862)八月二十九日卒 享年四十二歳」
秋實の子で、10代目の当主です。


「谷重昌室墓 (裏)明治廿九年1896)五月廿八日卒 池田氏光子 享年七十三歳」
重喜、芳叢、重中、乙猪、流水という5人の男子を産みました。
このうち乙猪は谷干城の養子になっていて久万山の墓地に墓があります。


「谷重喜墓 (裏)明治十九年(1888)八月廿日卒 享年四十三歳五ヶ月」
重昌の長男、自由民権運動家で活動し、後に陸軍大佐になりました。


「谷重喜妻墓 (裏)大正五(1916)年九月十六日卒 行年六十一歳 古谷氏女」


「大神芳叢墓 (裏)谷神之助 明治三庚子年(1870)正月之夜於東京斬殺於加州前田氏○臣○○帰○○自又」
重昌の次男ですが、裏側の撮影失敗で文字が不明でよくわからない。


「谷重中墓 (裏)明治廿九年(1896)十二月七日卒 行年四十六歳」
重昌の三男です。


「谷重中妻墓 (裏)昭和十五年(1940)十一月廿日卒行年七十八歳


「谷流水之墓 (裏)昭和十五年三月廿五日歿 享年七十九歳」
重昌の五男です。


「谷流水妻墓 (裏)明治三十一年(1890三月廿一日享年三十歳加賀野井氏_子」


「谷こま之墓 (右側面)流水妻 (裏)木村重次郎長女 昭和二十一年(1946)十月十四日没 享年七十九歳」


「谷神一郎墓 (裏)明治廿四年九月五日歿 流水長男行年四ヶ月」


(表)「谷重遠妻土橋氏」 (裏)「明和元年(1764)十一月廿三日」
谷重遠の墓は土佐山田にありますが、妻はここに眠っていることがわかりました。


「江口神敬 享保十四巳酉(1729)十月十一日」
谷重遠の姉妹ではないかと思われます。


「谷氏加那女墓 宝暦四申戌七月十日」
谷重遠の早世した姉妹ではないかと思われます。


「大神垣守墓」 (裏)「称谷丹四郎 宝暦三年壬申 三月三十日」
秦山の子、垣守の墓です。


「明和二乙酉年 谷垣守室池内氏墓 六月十七日」



「大神眞潮墓 (裏)寛政九年丁巳十月十七日卒 谷丹内


「眞潮妻立田氏墓」


「眞潮後妻別府氏」

このほか、谷重廣、谷重城妻、谷将自、岩田高郷などの墓がありました。

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