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谷干城(たに たてき)墓所

 天保8年2月12日に窪川で生まれ、初めは守部という名でした。
 土佐山田町に墓のある南学で有名な谷秦山の血を受け継いでいます。
 小さいときはわんぱくで手が付けられなかったのですが、あるとき父の信頼に応えるべく学問に目覚め努力した結果江戸留学を認められました。
 やがて武市瑞山と知り合い、また坂本龍馬とも交流をはじめ、勤王の志を持つようになりました。
 戊辰戦争では板垣退助と共に土佐軍を率いて戦い、西南戦争では熊本鎮台司令長官として西郷軍と戦い功績をあげました。
 その後の明治時代には学習院院長、華族女学校校長、農商務大臣、貴族院議員など国政にも活躍し、明治44年に75才で亡くなりました。


2003年3月21日 地図を頼りに谷干城墓所を訪ねました。


 高知市北部環状線が久万川と交差するところから東岸を北に入り山側を見て行くと写真のような小さい標柱があります。


 そこから山道を少し上がると「谷干城邸跡」の石碑が立っています。
 ここを右の方へ通り過ぎ、山通を登るとたくさんの墓がある墓地に出ます。
 なおも上の方に登ると谷家の墓所に入ります。


 広い墓所の真ん中に高く積み上げられた川原石の上に
子爵谷干城之墓と妻の墓が並んでいました。
谷干城は明治四十四年(1912)五月十三日薨享年七十五歳、
妻は明治四十二年(1910)十二月十九日薨享年六十六歳国澤氏玖満子
 谷家の言い伝えを守り、(小さくはないですが)自然石の墓で、青年団の
若者達が力を合わせてここに担ぎ上げたそうです。
秦山よりも前のご先祖の墓所は南国市にあります。


干城は上士、龍馬は下士で年も下。ではあるけれど、干城は
龍馬のことを尊敬していて、龍馬が暗殺された時には真っ先に
かけつけてまだ息のあった中岡慎太郎に話を聞いたそうです。
そうして、犯人は新撰組と決め、戊辰の役で近藤勇が捕縛され
た後、切腹ではなく斬首刑にすることを主張したのは龍馬の仇
打ちだったのだと聞きました。


 後段には父母らの墓が並んでいました。


大きい墓は乙猪です。谷重昌の四男ですが、干城の養子になりました。
従五位です。明治二十二年(1890)七月十八日卒。享年三十又三。
妻の愛子は薩摩藩藩士村田経芳(村田銃で有名)の長女で谷中墓地に埋葬。


 一番右が母、真ん中は継母の墓です。


窪川で儒医武道の師範であった父の谷萬七景井の墓です。
干城の誕生後、高知に出て藩校の句読役となりました。
明治三年(1871)四月十二日没得年七十六


右萬七室(安政十三年(1867)十月廿五日、享年二十有七)、
左萬七継室(天保十二年(1842)六月七日歿、享年二十有八)です。


少し離れて左手にあった、祖父谷萬六(大神好井)の墓です。
文化二年(1806)十二月廿一日


谷萬六室宮地氏の墓です。
文政二年(1820)八月十八日年六十二


大神好圓の墓です。
嘉永五年(1853)五月廿三日年六十六。


好圓妻傍士氏の墓です。嘉永六年(1854)十月廿六日卒。


谷神四郎好寛の墓です。弘化二年(1846)六月廿八日年二十八。


墓石のない石積みだけのもありました。


ずいぶん左に離れてありました。谷大六の墓です。
文政二年(1819)七月廿九日享年廿八。

谷干城の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
谷干城邸跡と墓所は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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