谷丹三郎重遠の墓 重遠は、号を秦山といいます。 寛文3年(1663)3月11日、岡豊八幡の神職の3男として生まれました。 17歳の頃、山崎闇斎、浅見けい斎について朱子学、神道、国学などを学び32歳の時浅川春海について、天文・暦学を学びました。 そして土佐南学を大成されました。 45歳のとき、6代目藩主のあとつぎ問題で無実の罪を受け、山田に蟄居させられました。 しかし、天を恨まず、貧しさにたえながらも勉強ひとすじに励み書物を書いたり、弟子達にも、学問の教えを説きました。 重遠の学問は長男の垣守、孫の真潮にも受け継がれ、門下生からは多くの立派な人材も出て勤皇運動にも大きな影響をあたえました。 享保3年(1718)6月30日、56歳でなくなりましたが「墓を大きくするのは、やがて家がほろびる」という谷家のいましめを守り、墓石も質素にしました。 (s61,3土佐山田町教育委員会の案内板より) |
2002年3月25日
国体を迎えるため平成14年4月オープンした「土佐山田スタジアム」の門柱が右端に見えます。
その前の交差点から北西にのびる石畳の小道があります。
この道を100mほど上って行くと谷秦山の墓所があります。
あまり広くはありませんが、ベンチなども設置されていて手入れができています。
玉垣の中には低い屋根がさしかけてあり、真ん中に小さな石の墓があります。
家訓として「大きい墓を造ると家が衰退する」という言い伝えを守り、偉大な学者にしては小さな墓です。
谷家先祖の墓所は南国市岡豊にあります。秦山の系統および兄の谷重正の系統の墓所は秦泉寺にあります。
谷干城を含む三男の谷萬六の系統は久万山の墓所にあります。また、土佐山田での秦山邸跡も残されています。
学問の神様ということで、願をかけた日の丸の小旗。(近くの店で売っています)
谷秦山の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。