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土佐の歴史散歩高知市北部>伊藤甲之助墓所

伊藤甲之助墓所


2013年8月3日(土) 今日も30℃を越えていて暑いですが、曇りで気温も昨日よりは2℃ばかり低いようです。
薊野から薊野中町を北に進み、あぞうの霊園に入り西端を少し下に下ります。
江戸時代の画家、中山高陽の墓をたずねて来たのですが、中山家の墓所のすぐ隣に広い伊藤家の墓所が並んでいました。
伊藤家の墓所は昔は筆山にあったのを明治になり薊野に移し、自動車道にとられ再び少し上に移葬したのだそうです。


伊藤家墓所のうち、五代目までの先祖群とされる墓石群です。
初代は肥後国から土佐へ来て商売を始めました。三代目から「辰巳屋」という屋号でした。
五代目は郷士として山内家に仕えるようになりました。


六代目からの本家伊藤家の墓石群です。


分家伊藤家の墓石群です。これら3つの墓所が並んでいます。


その山側中央に伊藤家を説明する大きい碑が建てられていました。
この中に、「幕末の頃には勤王の為に尽瘁し、」などとあり、今日の目的のひとつは
その土佐勤王党血盟同志であった伊藤甲之助に会いに来たのです。


数多い墓石群の中に一つだけ鳥居、玉垣の設けられた墓石があり、それが甲之助でした。


伊藤幸之助和義 元治元年(1864)七月十九日歿 行年二十一歳
伊藤和兌の長男として浦戸町で生まれました。
武道を好み、剣、砲、馬術を修め、土佐勤王党に加盟しました。
文久二年には藩主の参勤交代に随行し、引き続き朝廷の勅使の護衛
さらには七卿落ちの三条実美に衛士として付き添い長州へと移動します。
そのまま脱藩して長州の忠勇隊に属し禁門の変で戦死しました。
禁門の変では土佐から脱藩して忠勇隊に入っていた那須俊平、上岡胆治、
中平竜之介尾崎幸之進柳井健次なども戦死しました。


甲之助の墓石側面には歌が刻まれていました。
途中は読めませんが「土佐の墓」によると「梓弓ひくも手弱き身なれ共 思ひゐる矢は豈劣らめや」です。


「伊藤恰然墓」明治十一年(1878)十二月二十六日歿行年六十四歳
「辰巳屋」本家の五代勘右衛門中強の長男で名は和兌、通称恰然。伊藤甲之助の父です。
文久三年、容堂公に従って上京後、武市半平太らと交わり資財を提供したそうです。


「伊藤修墓」大正四年(1925)六月十一日歿 行年七十四歳
長男甲之助が亡くなったので伊与木家から養子を迎えました。
伊藤修は市会議員、市会議長、助役を経て一圓市長のあと二代目高知市長となりました。

伊藤甲之助の墓は伊藤和兌(恰然)と共に山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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