武市瑞山旧邸、瑞山神社、墓所
一藩勤王の理想をかかげ新しい時代を作るべく土佐勤王党の首領となり、公武合体論に固持して止まない吉田東洋の暗殺を命じ、やがては仲間と共に捕らえられ夢半ばで切腹して果てた武市半平太が暮らしていた場所に行ってみました。
坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎が一堂に会した折りに、半平太の奥さんの富さんから柿を振る舞われ、それをいただく三人三様のようすを話に聞いたことがあります。慎太郎は「かたじけない」と言って正座して食べた。虎太郎は「うちにも柿はあってよく食べているが、この柿は比べものにならないくらいおいしい」と言って食べた。龍馬は何も言わず黙々と食べたと。
2002年4月28日、武市瑞山(半平太)が菜園場に移転するまで住んでいた家に初めて行って来ました。
2011年4月13日に再び訪問し、旧邸と新資料館を見てきました。
のどかな田園風景のある高知市吹井(ふけい)の南北の道路際に道標が立っています。
2011年現在、駐車場がこの北60mにできています。
道標の方を見ると小道が旧邸の方に続いています。
突き当たりまで進むと石碑が建っています。
「武市半平太旧宅及び墓」と書いてあり、国指定の史跡です。
ここを左に折れて少し進むと門がありますが、現在も一般の人が
住んでいるので、旧宅には勝手に入ってはいけません。
右に進むと瑞山神社(資料館)、そして墓地へと続きます。
住人の方にお断りして門から中に入れていただきました。旧邸の母屋です。
内庭への中門です。
この縁に腰掛けて思索にふけることもあったのでしょうか。
池と庭の木々、そして白壁の塀が見えます。
座敷の角は庭を広く見渡すことができるように2面が開く形式です。
石積みがあるのは土蔵の跡です。
ここから左には現在住んでいる方の住居になっている長屋風の
建物があり、元は厩だったそうです。
石碑を右に曲がって進むと階段のうえに鳥居が。
瑞山神社の入り口です。
瑞山神社から見た旧邸。右が母屋、左が旧厩です。
遠くに介良、大津の街が見えます。
以前の瑞山神社の拝殿です。
地元の方々の力で瑞山資料館として建て替えられました。
以前の拝殿内に武市瑞山の像のミニチュアが置いてありました。
ただし、これは頭が大きくてバランスが悪いと酷評された横波
スカイラインの海側の広場にあった銅像のミニチュアです。
今はもっと格好の良い像がスカイライン頂上の北側の広場にあります。
>武市半平太像
新装なった資料館でミニチュア像は感慨深げに立っていました。
旧拝殿内には取り払われた銅像についていた刀が記念として置かれていました。
これも新資料館の前に設置されていました。
旧拝殿内には他にも鴨居の上に額に入ったさまざまな絵がかかっていました。
これは半平太の奥さんの富子さんです。
慶応元年、半平太が切腹するところを絵に表しています。
これらの資料に加え、おそらく松岡司氏の監修による様々な
資料が新しい資料館にはきれいにまとめられ展示されています。
新資料館も今までと同じように瑞山神社の拝殿を兼ねていて、
北側のガラス戸を開けると本殿を遙拝できるようになっています。
神社から一段上がったところに、武市家の墓所があります。
写真の左手から上がってきたのですが、一番上がり口に近い方に武市半平太と冨夫婦の墓が並んでいます。
小盾は義理の叔父となる鹿持雅澄がつけた幼少時の諱(いみな)だそうです。
残念なことに、ほとんどの人はこの墓だけを見たら帰ります。
武市半八正久(半平太の父)夫婦です。
天保二年(1831)十二月歿、行年67。
武市半右衛門(半平太の祖父)の夫婦です。
享保十七年(1732)十一月歿、行年67。
新資料館に掲示されている系図は、祖父と父の名前を取り違えて書いてないでしょうか。
養子に迎えた冨と一時梼原で暮らした半太の夫婦です。
昭和十七年四月歿、行年60。
島村辰右衛門(冨の叔父)の夫婦が後ろにありました。
武市瑞山の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
武市瑞山旧邸と墓所は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。