土佐の歴史散歩梼原町>那須俊平信吾父子の墓所・邸跡

那須俊平信吾父子の墓所・邸跡


2011年5月19日(木) 神在居から旧道を西へ進んできました。下に「雲の上のホテル」が見える場所も過ぎました。

 信吾は吉田東洋暗殺を実行した後、脱藩して吉村虎太郎の天誅組の幹部となりましたが、大和義挙に失敗し幕府軍に討たれました。
34歳(1829〜1863)
 父の俊平は土佐一の槍の名人で道場を持っていました。信吾が戦死した後、俊平も脱藩し忠勇隊に加わり禁門の変で戦死しました。
57歳。(1807〜1864)


道路山側に看板がありましたが、道路下にも墓地が見えたので下りてみました。
那須家先祖の墓地のようです。


その中に那須俊平の奥さんの墓がありました。
俊平との間には男子がなく、佐川の浜田家から
兄金治に養育されていた信吾を娘婿にしました。
金治の息子が田中光顕です。


さらに一段下りるとまた那須姓の墓が並んでいました。


信吾が変名として使った幾之進と同じ名の墓がありました。
梼原町史によると俊平の父であり、槍の名人で、
梼原の志士たちの多くが入門していたようです。(〜1814)


幾之進の父、平次兵衛です。
初瀬村から来て茶業で稼ぎ郷士株、領地を譲り受け、幾之進を郷士にしたそうです。


旧道の山側にあった案内板です。


「贈従四位那須君招魂碑」(左)と「那須翁招魂之碑」(右)です。


墓所からさらに旧道を梼原の中心に向けて進むと、谷あいに平地が広がる
場所があり、看板が立っています。那須父子の屋敷跡と道場跡です。
この道場で父俊平が槍を教え、信吾は坂本龍馬と共に日根野道場で
鍛えた剣の腕で梼原の若人たちに教えていました。


那須先生父子邸跡の碑です。

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