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山内家墓所

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、徳川幕府は豊臣方であった長宗我部盛親の領地を没収し、代わりに功績のあった山内一豊を土佐に配属しました。
 以来、慶応3年(1867)の大政奉還までの長期にわたり土佐藩を治めました。
 第15代山内豊信が大政奉還を建白したのですが、この墓所には入っていません。。
 天満宮横の真如寺を菩提寺としたので、藩政時代は現在の筆山を真如寺山、日輪山などと呼んでいました。
 さすがに藩主代々の墓所なので家老達とはちがい、広い敷地に堂々とした姿でそれぞれが祀られていました。


2003年3月30日 墓所入り口の山内さんにお断りして、墓所を訪れました。


筆山登山口の東隣にある山内家墓所入り口の黒門
歴代藩主
1 一豊(かずとよ) 慶長10(1605)没 卵塔
2 忠義(ただよし) 寛文4(1664)没  卵塔
3 忠豊(ただとよ) 寛文9(1669)没 角石塔
4 豊昌(とよまさ) 元禄13(1700)没 角石塔
5 豊房(とよふさ) 宝永3(1706)没 角石塔
6 豊隆(とよたか) 享保5(1720)没 角石塔
7 豊常(とよつね) 享保10(1725)没 角石塔
8 豊敷(とよのぶ) 明和4(1767)没 角石塔
9 豊雍(とよちか) 寛政元(1789)没 角石塔
10 豊策(とよかず) 文政8(1825)没 角石塔
11 豊興(とよおき) 文化6(1809)没 角石塔
12 豊資(とよすけ) 明治5(1872)没 土饅頭
13 豊熈(とよてる) 嘉永元(1848)没 角石塔
14 豊惇(とよあつ) 嘉永2(1849)没 角石塔
15 豊信(とよしげ) 明治5(1872)没 土饅頭
16 豊範(とよのり) 明治19(1886)没 土饅頭


 黒門をくぐり、林の中を立派な石段が一番上の一豊公の
墓まで数10m続くのを見ると厳粛な迫力が感じられます。
 その石段の左右に、それぞれの墓所が6段に分かれて
広がっていて、この写真は一番下の段です。


石段左側の一番下の段には11代豊興公の墓がありました。
私も背は高いのですが、角石塔は見上げるほど背の高い立派なものです。

 
同じ段には6代豊隆公、7代豊常公の墓がありました。
このような角石塔には戒名の横に藤原朝臣山内豊隆というように書かれています。
(墓の形式は3代から11代までと13,14代は同じ角石塔形式)


 奥に進むと禎祥院(豊信室)や豊資側室などの女性の墓もあり、
更に奥に進むと13代豊熈公、14代豊惇公の墓が向き合っていました。


 同じ段で、中央石段の右側に入り進んで行くと8代豊敷公と
9代豊雍公が背中合わせに眠っていました。


 中央の石段を少し上がると左側に角石塔の豊範公の墓が
一つだけあり、更に上がると左側に広がる墓所があります。
 ここには16代豊範公と2代忠義公、4代豊昌公が眠っています。
 この墓は卵塔といわれる形式で、2代忠義公の外には初代一豊公だけです。


 16代豊範公の墓は土まんじゅうの横に苔むした自然石の
墓石がありました。
 なお、15代豊信(容堂)公の墓は同じ土饅頭形式ですが
ここ筆山にはなく、東京品川にあります。


中央石段を挟んで右側に広がる墓所には明治時代の17代
豊景公夫妻の墓もありました。
その隣には三代忠豊公夫妻が、更にこの右奥では
5代豊房公も眠っています。


 中央の石段に戻り、上り詰めると初代一豊公の墓です。
 卵塔の石碑が意外に小さいのですが、さすがに周囲の
柵囲いも整備されて400年の歴史を感じる風格のあるたた
ずまいです。
 一豊よりも先に領内に入り、準備をした弟の康豊の墓所
隣地の要法寺内にあります。


12代豊資公は一豊公の左奥にあり、自然石の石碑が
寄り添う土まんじゅう形式の墓で、周囲には排水溝も備えられ、
四隅に植えられた樹木も立派に育っていました。



慈仙院(合姫)の墓(正保3年(1646)没、93才)

墓所の黒門を出て隣の登山道を登り始めると右側の墓所に
初代一豊公の妹の慈仙院(合姫)の墓があります。合姫は
はじめ野中兼山の祖父良平(よしひら)の妻となり良明(よし
あき)を生みました。良平が死んだ後にその弟の益継の妻と
なり、直継を生みました。兼山は父良明の出奔の後、この玄蕃
直継の養子となり成長しました。この墓には、悲運の兼山の
娘の婉が泣きながら曾祖母の墓を建てたということが墓碑に
書かれています。 「孤哀女婉泣植焉

山内一豊の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
山内家墓所は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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