長宗我部元親は一度この大高坂山に築城しようとしましたが、鏡川、江の口川に挟まれた中州状の地帯で、しかも現在よりも海が近く難工事となり断念、それよりも秀吉の要求による水軍の力を増強することや、海上交易を盛んにするため浦戸に築城しました。
山内一豊は一旦浦戸に入城しましたが、浦戸地域は城下町を構成するためには狭いので、築城家として名の高い百々越前守に命じ築城、慶長8年に一応完成、入城し、河内山城と名付けました。その後二代忠義の時代に「高智」、つぎに「高知」と記されるようになったそうです。
2009.12.8筆山から
高知城は高知市の中心地にあり、周囲には県庁や市役所、警察、そして図書館などの文化施設やホテルなどがあります。
高知城を観光するなら、観光バスで来ても乗用車で来ても高知城駐車場に入ることがほとんどでしょう。
ほとんどの方はまっすぐ板垣退助像に向かい、そして天守に向かいます。追手門も一豊像も見ないで・・・。
一豊の騎馬像は大きさでも全国レベルですが、動きの感じられるすばらしいものですし、追手門は200年前の姿がそのままであり、背景に天守を重ねて写真に納めることができます。ぜひ、表玄関である追手門をくぐってから城内巡りを始めて下さい。(高知公園地図参照)
城山の東側にある県立郷土文化会館(文学館)です。
文学館の南隣にある県立図書館です。
2009.9.10
県立図書館の南側に立派な銅像があります。
徳川幕府になってそれまでの長宗我部氏に代わり土佐を治めることになった山内一豊公の像です。
以来明治維新までの約300年間、土佐藩は山内氏の時代が続きました。
この像は一豊を顕彰しようという運動が起こり、本山白雲が大正2年に制作したのですが、
太平洋戦争終末期の昭和19年に資材として軍により徴用されたのでした。
その後、制作当時関係者にミニチュアを配布したものが山内家に残存していたので、
それをモデルとして平成8年に復元されたのです。
2003.10.24
県立図書館や郷土文学館のある場所は
野中兼山の屋敷跡に藩主を祀るため作った
県社「藤並神社」でした。
また、この神社は城郭を囲う堀の内側にある
城内社でした。
現在は藤並公園として、市民の憩いの場所となっています。
ここでは、天気が良ければ露天の将棋合戦が行われています。
夏の間は木陰で、冬の寒い日は日向でのどかに・・・
春の追手門(おうてもん)です。天守閣と重ねて撮影できる、ベストビューポイントです。
200年前からのどっしりとした追手門の扉です。
2階があり、兵士が石や弓矢で守りを固めていました。
両翼の石垣の上には狭間塀が延びています。
追手門をくぐると、自由民権運動の「板垣退助の像」が手を挙げて迎えてくれます。
広い石段を右に曲がりながら上がっていくと「杉の段」に出ます。
通路は左の方に進みますので見逃しやすいのがこれです。
上り詰めた右方に「一豊の妻像」があります。
なぜ馬が横にいるのかというと、わかりやすい代表的な話として、
新井白石が記したものに「千代が実家の父から万一の時に
使うためにもらっていた金で一豊の乗る立派な馬を買った」
というのがあります。また、関ヶ原の戦いの際の「傘の緒の文」
の話もあり、すばらしい賢婦だったようです。
この「杉の段」をそのまま上に上がると「三の丸」に上がりますが、
奥に入って三の丸の北側を回ると、しっとり落ち着いた散歩道があります。
>>高知城北廻り
この「杉の段」から天守に向かって進む途中に天守閣の撮影ポイントの
ひとつがあります。城内井戸の跡と幕末期の三名医といわれた一人の
岡村景楼君記念碑の中間ぐらいでしょうか。
石段が次第に狭まりながら右に曲がり、なおも上がっていくと、
「鉄門跡」を通り升形の場所に出ます。
ここだけ石垣の石の形がきれいなのに気がつきます。
ここに入母屋造り、二階建ての門があったそうです。
また、石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていたといいます。
ここで石段は左に曲がります。
石段の上がる方向を見上げると二階建ての「詰門」が待ち構え
ています。
二階は二の丸から本丸への通路となっていて、一階は倉庫と
通路になっています。一階の入り口は建物右部分にありますが、
出口は横にずれた左側にあって、簡単に通り抜けできないように
なっています。
また、せっかく通り抜けても、梅の段に出ますから、ずっと遠回
りしないと上の二の丸には上がれず、上からの攻撃にさらされます。
「詰門」には入れませんのでその左にある小道(武者走り)を天守の
石垣に向かって進みます。
忍び返しの鉄串や石落としなどを見ることができます。
さらに石垣に沿って進むと、本丸に降った雨を外に導く排水口が
飛び出しているのが見えます。土佐は雨量が多いので、工夫が
なされていることが分かります。
石垣に沿って小道を進み、本丸の南側に出ると「鐘撞堂」があります。
元に戻り、「詰門」前を右に上る石段がありますが、さらに右方には「三の丸」が広がっています。
少し奥に入って振り返ると天守閣が見えます。ここもベストビューポイントのひとつですね。
この写真の時期は桜の下で宴を張ろうと陣取りをするシートがたくさん敷いてありました。
ここには500坪以上の大書院があって、年頭や節句などの儀式で大勢の藩士が集まるときに使われたそうです。
もとに戻り、「詰門」前の石段を上ると「二の丸」です。
ここも現在は広々としていますが、初期藩主の居住したところで、
御殿、奥御殿、長局、目付役所などが所狭しと建っていたようです。
また、西北端には「乾櫓」という三階建ての立派な櫓があったということです。
「詰門」の二階部分、「廊下橋」の入り口、つまり「本丸」への入り口です。
開門9:00、閉門17:00、入場券販売は16:30までと書かれています。
「廊下橋」の内部から出口を見たところ。
ここもまっすぐには進めないようになっています。
「廊下橋」の内部には老中などの溜部屋が3つありました。
「廊下橋」を出て石段を上がり振り返る。
上は「廊下橋門櫓」で「東多聞櫓」を通じて天守から続いています。
「廊下橋」出口の石段を上がると向かいに見えるのが「黒鉄門」です。
この右側には小さいけれど「西多聞櫓」があります。
三層六階の総漆喰塗り込めの天守です。
一豊時代の天守は享保12年(1727)に焼失、その後礎石や土台をもとに延享4年(1747)に当時のまま再建したそうです。
天守は昔のままの姿が太い柱や梁とともにそのまま残されています。
また、右手の本丸御殿(懐徳館)は寛延2年(1749)に再建されたもので、数寄屋風書院造りとなっています。
本丸の建築物群がいずれも江戸時代のものがそのまま残されているのは全国でも高知だけです。
>>正殿、天守の内部へ
2002.11.23
県庁前通りからの高知城。ここも格好の撮影ポイントです。
左の大きい建物が県庁です。写真には写ってない左手には市役所もあります。
高知城は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。