土佐の歴史散歩南国市北部>長宗我部氏一族の墓所

長宗我部氏一族の墓所


 2004年3月27日 才谷を訪れた帰りに県立歴史民俗資料館に寄り、長宗我部氏一族の墓所の場所を尋ねました。

 資料館はPM4:30の閉館間際でしたが、受付の方が丁寧に教えてくださいました。
 場所は資料館への登り口から県道を高知市方面へ300mほど歩き、左手の山に向かって入ります。


 山に突き当たると右に曲がり、作業所の裏を通って墓所に進みます。


 墓所の全景です。五輪塔がたくさん並んでいます。


もう少し中に入ってみました。でもこれではどれが誰のお墓か判らないですね。
南国市教育委員会が建てた説明板がありましたので、これにしたがって見ましょう。

   長宗我部氏一族の墓

 岡豊山から西や北におりる谷間一帯には、
玄陽院・瑞応寺・東谷庵などの寺院跡があり、
長宗我部氏代々の墓所が残っている。
 二十数基の墓は、ごく粗末なもので、連綿
二十余代に及んだ長宗我部氏の歴史を物語
るにはあまりにも貧弱なものである。上段には
国親又は信親といわれる墓碑があり、下段
には累代の墓が立っている。
 ちなみに元親は長浜天甫寺山にあり、長男
信親の墓は長浜雪蹊寺境内に、次男親和の
墓は累代の墓の東方五十メートルの所にある。
三男親忠の墓は土佐山田町~通寺にあり、四
男盛親は大坂夏の陣に出陣捕らえられて京都
六条河原で斬られ、今は京都五条寺町蓮光寺
に眠っている。

          南国市教育委員会


 上段にある大きい墓が国親ではないかと思われます。


二十余代にわたった長宗我部氏ですが、
専門家でもだれのお墓か特定できないようです。

(2004.9.18)
 さらに歴史民俗博物館への登りの途中、道路右側に
「香川五郎次郎親和の墓」と書かれた白い標柱が立っ
ています。
 ここから数十メートル山中に入ると元親の次男で、讃
岐の香川家を継いだ親和の墓があります。秀吉の四国
征伐によって改易となり、人質になっていました。後、岡
豊に帰りましたが戸次川の合戦での長男信親の死後、
世継ぎが四男盛親に決まると落ち込み、遂に病死してし
まったそうです。

 四国統一寸前まで果たした長宗我部氏の墓所ですが、山内家の立派な墓とはまったく違う小さな墓でした。
 それもそのはずですね。ここに葬られているのは元親の父である国親までの代です。これまでは本山氏、山田氏、香宗我部氏などに囲まれ、一度は滅亡するやに見えた小城主だったのですから。一条氏だか大平氏だかに命を助けられた国親が、この地に戻されて長男元親と共に、父の仇である本山氏を打ち果たしてからが長宗我部氏の隆盛時代になったのですね。

 なお、元親の墓は長浜の天甫山に、長男信親の墓は長浜の雪蹊寺に、三男親忠の墓は土佐山田町神通寺に、四男盛親の墓は京都にあります。

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