ここは追手前小学校東側の塀沿いの場所。
繁華街の帯屋町筋がすぐ近くで、自転車が数多く置かれる場所です。
地元の方が花のプランターでなんとか空間を確保というところ。
この時はすっきりしていました。しかし、記念の地というのはなんだか変です。
吉田東洋邸はこの碑の南にあるアーケードを左に入って(東に)100mぐらいのところの北側です。
吉田東洋の墓は筆山南東面にあります。
吉田東洋は土佐藩士馬廻200石の家に生まれ、本名正秋。通称元吉、号が東洋。先祖は長宗我部元親配下の吉田氏。
13代豊Xにより郡奉行、船奉行に取り立てられ、改革に努めていましたが、豊X没後には辞職して有馬温泉で療養するとして京阪、三重などの諸国を遊歴、見聞を広めました。
江戸時代末期、嘉永元年(1848)の土佐は13代豊Xの江戸での逝去、14代豊惇の急死による豊信の15代藩主就任というあわただしい出来事がありました。さらに嘉永6年浦賀にペリー来航をうけ、また、土佐沖を黒船が通ることもあり、非常態勢に即応する体制が要求されていました。
この年には土佐藩の外交意見書の起草を命じられました。その後大目付、仕置役に起用され藩政に携わるようになりました。
藩主に伴い江戸では小南五郎右衛門、藤田東湖など名士と交流、藩主豊信に紹介しました。そんな中、安政元年(1854)に事件が起きました。
山内家の親戚の旗本松下嘉兵衛が宴会の折に酔って土佐藩士の頭をたたいて回るという侮辱的なことをしましたが、相手が旗本なので藩士達は文句を言えません。やがて東洋もたたかれ腹に据えかねたたき返したのです。後日、相手の方から謝罪があったのですが、土佐藩も東洋を城下四か村禁足の処分にしました。
処分が解けるまでの間、東洋は少林山雪蹊寺の近く、長浜鶴田で少林塾(鶴田塾)を開き、土佐南学を身分にかかわらず青年達に教授しました。甥の後藤象二郎、福岡孝弟、小笠原謙吉、岩崎弥太郎、間崎哲馬など後に大きな働きをする青年達が門下生にいました。
東洋の安政改革では、震災復興のためや黒船など非常時対応に向けた財政再建、そして郡奉行所新設、民兵募集、大砲鋳造、台場築造などを行い海防を強化しました。また、薩摩、長崎等に藩士を派遣、西洋の知識を導入し、文武館を開設し多くの藩士を教育する準備をしました。次に武家世襲制の廃止、士格の整理をし、系統的に法令(海南政典)を整備しました。さらに家格を超えた人材登用を行い力強い藩政が行えるようにしました。
しかし、いつの改革でも守旧派からは抵抗があるものです。藩主豊信は安政の大獄で謹慎させられていたので、その間に東洋が勝手な振る舞いをしていると見られたり、特に武家世襲制の廃止などは藩内の門閥派、保守派の大きな反発、恨みを買いました。
また、海防強化による出費のための負担増による反感、士格の改革による上士の反感、それに加えて独断的な性格など個人的な反感、悪評などもあり、それらの反対勢力は、ついに行われた土佐勤王党による東洋の暗殺も容認していたのだといわれます。
この偉大な改革者の悲劇を、どうしても私は藩政初期に改革を強力に推し進め、その辣腕ぶりを恐れられ、周囲に陥れられた野中兼山に重ね合わせてしまいます。
吉田東洋遭難の地と邸跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。