筆山第1駐車場から第2駐車場に上がるヘアピンカーブから
皿ヶ峰に向かう墓参道のもとから、直ぐに東に進む墓参道に入る。
道なりに200m余り進むと左側に短い標柱がある。
そこから上に向かって進むと左側に吉田家の広い墓所がある。
江戸時代の初代 吉田猪左衛門正幸夫妻の墓です。元禄6年(1694)没。
もっと先祖には長宗我部元親の家老吉田備後之守がいます。
2代 吉田孫左衛門正俊夫妻です。享保17年(1734)没。
3代 吉田孫左衛門正任の墓です。
4代 吉田市左衛門茂胤夫妻の墓です。文化6年(1810)没。
東洋の父母である、5代 吉田光四郎正清夫妻の墓です。天保12年(1842)没。
母は茂胤の二女で、父は百々弥三右衛門勝経の次男だったようです。
吉田又市正経は早世した東洋の兄の一人です。文政5年(1823)没。
吉田東洋正秋夫妻の墓です。妻は後藤左近右衛門正澄の三女、琴で、琴の兄の子が後藤象二郎です。
父が病死した後藤象二郎を、東洋は親代わりになって養育していました。
東洋は4男ですが、兄3人が早世したので父の跡を継ぎました。
船奉行、郡奉行を務めた後、14代豊熈の藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」
の設立を進言しました。また、人事や法令改正、海防などの意見書「時事五箇条」も提出しました。
豊Xの死去後、上方を遊歴し伊勢、京都の学者と会うなど見聞を広げました。
15代豊信(容堂)の抜擢により仕置役、参政となりましたが、酒席で不祥事を起こし長浜に蟄居。
その間に松林(鶴田)塾を開き、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎などの若手を育てました。
後、再び登用され「海南政典」を定め、富国強兵のための改革を推し進めました。
このように大変進歩的な考えの持ち主だったのですが、保守的な門閥勢力と対立、さらに藩主の
ためには公武合体論をとらざるを得なかったので土佐勤王党と対立し、志途中で那須信吾らに
よって暗殺されました。
文久2年(1862)4月8日没 享年48。妻も後を追い、わずか13日後の同年4月21日没。
墓地には平成2年に建てられた真新しい墓石がありました。
吉田信さんは昭和5年に68歳で亡くなっています。おそらく東洋の娘か、もう少し遠い縁者でしょう。
和子、光子さん姉妹が昭和34年秋に叢の中のこの墓所を発見、慰霊した。
それは母と祖母の生涯の念願だったので、祖母の墓をここに建てたとのことです。
東洋が暗殺された後は、墓は建てたものの、以後ご遺族が墓所を管理することが
困難な状態が続いたのでしょう。
吉田東洋の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。