2008年3月10日 前田秀徳先生に案内いただきました。
車は狭い道路で迷惑を掛けないように筆山の駐車場に置きました。
筆山のドライブウェイ西端の分岐を筆山霊園の方に歩くと、右側にあるモーテルを過ぎたところに
左の山に入る小道があります。
上がり始めるとすぐに右側に大山祗神社があります。
どうやら瀬戸内の大三島にある大山祇神社のようです。
さらに登り、左側に1軒だけ民家があるところで、右の山側の一段上を見ると寺石正路の墓が見えます。
後列の墓は別の場所から移動してここにまとめたような感じです。
後列の右端のお墓です。明治42年1月に亡くなっています。
明治39年5月に亡くなってます。行年1歳4ヶ月。
正路の弟。明治4年10月生まれ、同28年八月に亡くなっています。行年23歳10月。
昭和15年10月に亡くなっています。行年29歳。
正路の長男 明治32年10月生、大正12年3月に福岡で25歳で亡くなっています。
正路の二男 墓碑によると京都帝国大学に入学し物理学を志しましたが、体をこわし帰郷して高校の教
員になって物理学の研究を続けています。昭和30年3月病死。行年53歳。
父寺石可成、母壽賀の間に明治元年、九反田で生まれました。
小学校卒業時父と9泊10日の京阪神旅行に出たことがこの後の人生に影響を与えたのでしょう。
海南学校を優秀な成績で卒業、東京の共立学校に入学し、大学予備門へ進む。
正岡子規、秋山実之、南方熊楠らと肩を並べ学業に励んでいましたが、明治18年脚気にかかり
治療しましたが全快せず、翌年退学、帰郷。明治23年尋常中学校補欠教員として採用され、
明治24年宿毛貝塚、愛媛県平城貝塚を発見考古学者としての名声を上げました。
明治25年海南学校の地理・歴史科の教授嘱託として採用されました。
後に郷土史家として名を上げる平尾道雄が教え子にいました。
この後、数々の発見、論文執筆などを重ね、郷土史家としてだけでなく、考古学、民俗学、人類学
などの分野において、中央の学会でも高い評価を受けてきました。
昭和31年10月27日に亡くなりました。行年82歳。
(参考「土佐・郷土誌の父 寺石正路の足跡」高知県歴史民俗資料館)
寺石正路の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。