2009年12月26日(土) 12月に黄砂が舞うのは16年ぶりという、もやもやとした空の下でした。
筆山登山道を歩き、駐車場までの中程で左(東)上に上がります。
墓所中央前面の石段から上がります。
墓所中央の山側を切り込んだ奥に孕石元成の父、元泰の碑がありました。
天正九年(1581)三月二十三日没
遠祖は足利尊氏のもと遠州原田庄を領地とし孕石村に
住んだので孕石を姓としたようです。元泰は武田氏に仕えました。
中央左側に孕石元成と妻の墓が並んでいました。
孕石小右衛門尉元成の墓です。
寛永九年(1633)八月三日没
元成は武田氏滅亡後浪人となっていました。
秀吉の小田原の陣で井伊直政に属してよく奮闘して
いましたが負傷し、旧領に退きました。
山内一豊が掛川城に入るにあたり召し出され、200石
を与えられ、土佐入国後は450石になり、
主君の影武者を勤めました。
中央右側には孕石元政の墓を挟み左に妻、右に後妻の墓が
ありました。
孕石風軒元政の墓です。
元禄十四年(1701)二月二日没。
頼母、小右衛門と称し、父は二代内蔵助正元。
(木部籐兵衛二男、初代元成の養子)
父の跡を継ぎ、山内三代忠豊に近習家老に
とりたてられました。
野中兼山の優れた能力を怖れた幕府や藩主など
の意向に従い、生駒木工と謀り、30年間続いた
執政を失脚させ、寛文の改替を行いました。
広い孕石家墓所の一部です。
奥に進むと、さらに墓所が続いていました。
その中で一番大きいのは主水元矩の墓です。
正徳四年(1715)七月十日没
孕石元成の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。