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深尾土居跡

 山内一豊は姉を嫁がせるなど美濃・掛川時代から親交のあった深尾重良に土佐着任の際に佐川を与えました。
 しかし、一豊亡き後の嘉永7年(1630)、一豊の弟康豊は重良の子重忠を分家させ高知深尾家とし、自分の息子重昌を重良の養子とし佐川深尾の2代目としました。つまり深尾家を乗っ取ってしまったのです。

2011年9月9日(金)佐川深尾氏の土居跡を訪ねました。
最近は廃れた感じがありますが、ナウマンカルストの大きい案内看板は元気です。


この看板を見たらその近くに車を置きます。少し道路を上に進んだところに車を置くのにいい場所がありました。


車を置くと反対の山側に「深尾神社」がありました。
古地図を見ると、このあたりの山上に朝霧八幡宮があったと書かれていて、その名残かと思いました。


ナウマンカルストの案内看板まで戻り、そのあたりをよく見ると、「佐川城跡と土居屋敷跡」という看板がありました。
戦国時代の佐川城は元和元年(1645)まで後ろの山上にありましたが、一国一城令で取り壊しとなり、
ここに藩庁となる土居を作ったと書かれています。


看板近くの草むらの中にこんな石碑がありました。
「土佐国老佐川邑主深尾累世之・」とあり途中までしか見えませんがこのあたりが土居跡だという感じがします。


道路から下におりて対岸に行き旧往還に立ち、もと来た方を見ました。
山裾が削られているところが今まで居た道路です。家が並んでいる場所が土居跡です。
ここに見えている石垣はもしかしたら藩政時代のものかと「佐川くろがねの会」の竹村氏にお訊きしてみましたが、残念ながら
ほとんど残っていない、それは違うというお答えでした。


近くにあった案内板から土居の嘉永年間の図です。
一番上には本殿、正殿があり、その横には武器庫などがあり、下の方には馬場や厩があったようです。


土居邸内に創建されたという郷校「名教館」の玄関部分が佐川小学校内に保存されています。
玄関内に堀見初亀氏の撰文による説明がありました。

「安永元年(1772)佐川領主深尾氏は土居邸内に「名教館」を創設、家塾、後に郷校士分の
教育に資した。 天保元年(1830)菜園畑(東元町)に広大な独立校舎を新築、藩校を凌ぐ
設備を整え、依頼、幕末まで数多の人材を育成し、佐川郷の文運を高めた。 明治2年
(1869)版籍奉還により「名義塾」、同年「名教学舎」、後「佐川小学」と改名、同20年肥代
之坂(中本町)台地に、「佐川尋常小学校」として校舎建築、同22年名教館の玄関を移設
した。大正2年(1913)校舎をこの地に新築、再び元の玄関を付設、昭和40年(1965)校舎の
大改築に際し、先賢保存の意を享け、藩政以来、佐川文教の渕叢として、数多の人士、
鞠躬として、この虹梁を潜りたる玄関を残し、茲に記念館として保存するものである。」


北東の鬼門を護る場所には日蓮宗妙像寺があります。
ここには、深尾重昌側室のお呂久夫人の墓があります。階段下の説明文に曰く、
「尾川村の農家の娘として生まれ、深尾二代重昌の側室として才色共に恵まれた賢夫人で、
領内の産業振興に数々の功績を残した。妙像寺を領主の深尾屋敷「鬼門除け」として再興し、
延宝5年(1677)に歿した。墓はこの寺院の裏山にある。」


山門です。美しく整えられた庭が見えます。


立派な本堂です。右には手水舎があり、左には庫裏がありました。


本堂の右手から石段を裏山に上がると、経塚と並んで戒名を刻んだお墓がありました。
明治2年(1869)に土居が廃止されるまでずっとこの深尾屋敷の鬼門を護り続けたのです。


すぐ近くのナウマンカルストに行ってみました。
夏草が生い茂るカルストをナウマン象の親子が散歩していました。
でも夏の間はここに踏み込むことは危険なようです。まむしに注意!の立て札がありました。

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