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帰全山公園

 帰全山公園の対岸から見ると、その地形が雁が羽を広げて南に飛んでいるように見えることから「雁山」と呼ばれ、古来より聖地として崇められていたそうです。
 土佐藩主が山内氏となり、本山の領主は野中兼山となりました。兼山の母が亡くなり儒教の教えに従い土葬としましたが、その時に山号を儒教の先生であった山崎闇斉に頼んで「帰全山」と決めてもらいました。
 野中家断絶後も有志の祭祀が続き、土佐藩の手から明治には個人所有地となったがすぐに本山村が買収し、「日露戦争記念帰全公園」として開園。県立白髪山公園の一部として指定を受けているそうです。


2002年9月28日 カメラを提げて訪れました。


写真の左向こうから公園に入ってきます。


地図を広げている野中兼山の像です。


 全景とアップ。厳格そうな顔立ちですね。
(原型制作 辻晋堂、鋳造 高原四郎)


兼山廟への入り口にある鳥居です。


 昭和15年から兼山の徳を偲ぶために嶺北地域の町村長が中心となり呼びかけ、
昭和27年に竣工した兼山廟です。


 野中兼山の実母である秋田夫人の墓です。
 
 千人もの人を使って石室に近い土葬をしたそうです。
 先に生まれた兄弟は若くして死に、母は兼山を特に大切に育てあげた
ということで、兼山はその恩に報いようと立派な墓を作ったのでしょう。
 しかし、あまりに母の葬儀を盛大に行ったことが、幕府から
謀反の嫌疑をかけられ、失脚の要因の一つになったといわれます。


 兼山の実母の墓の後ろには兼山の長女順の墓もありました。


 儒学者山崎闇斉による「帰全山の記」が真っ赤な円筒に彫られていました。
 「・・・父母の形見の五体を損傷せず、完全なまま大地に返すのが孝行の第一で、母堂はまさに
そうだったから「帰全」の名が決まった。・・・」


 帰全公園のすぐ隣は本山中学校でした。


 本山大橋は二つあり、これは上流側の新しい方。
 もうひとつは、古くて狭く歩行者専用となっていました。


橋の下を見ると透明できれいな水の川でカヌーが楽しそうです。


 大橋の上流方向です。川は向こうの左からこちらへ大きなカーブを描いて下ってきていますが、
右手の平らな岩の向こう側が兼山のアホウ堀と呼ばれるところです。
 兼山はここを掘り進めて帰全山公園の周囲を大きく蛇行する川をまっすぐに流そうとしましたが、
あまりに岩盤が堅くてあきらめてしまったということです。


 公園にはゲートボール場があり、明日の大会を前にご老人たちが練習に励んでいました。
 テントの横には老人たちのかわいい自家用車が乗りつけてありました。

秋田夫人の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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