土佐の歴史散歩香南市>大石圓墓所

大石圓(まどか=弥太郎)墓所


2010年3月14日(日) 村田家墓所を探していたら、偶然にも大石圓の墓のある墓所に行き当たりました。


 ごめん−なはり線の吉川駅が左です。
 村田忠三郎の墓所を示す碑右に見え、そこから向こうに見えるカーブを過ぎたあたりの小さな谷
の上に墓地が見えたのでまっすぐ上がると、大石と書かれているのですぐにわかりました。
 歩いて渡ったその谷は夏はマムシが出そうです。別に安全な道がありそうです。
 大石圓邸跡は鉄道を挟んで反対側(野市町)にあります。


大石家の墓所です。


後ろにもう一団の古い墓がありました。ご先祖なのでしょうか。


丸に違い丁子紋です。


大石圓(弥太郎)夫妻の墓です。


藩の命で江戸に出て勝海舟の塾に入り時勢に目覚めました。
武市半平太を首領とする土佐勤王党の幹部で、盟約文草案
を書き、2番目に血判を押していたことはよく知られています。


墓碑の側面には文字がぎっしり並んでいます。
「先生の通称は弥太郎、諱は元敬、後に圓と改めた」
「武市小楯と協力して土佐勤王同盟を首唱す」
「長崎に在り専断を以て洋銃二千丁を購う」などと彫られています。


背面にも文字は続き、「明治元年東征の時は隊外軍事役となり・・・
凱旋の後、新馬廻格に抜擢さる」「・・・従五位に叙せられ大正五年十月
三十日八十八歳をもって没す」などの文字が見えます。


さらに若い頃に鹿持雅澄に師事していたこともあり、歌が彫られています。
「ひさかたの天つみそらに今日わしも ちりの身の名の聞こえ上げつも」
寺石正路撰 川谷廣次書


父(平右衛門元介)と母の墓です。
分家した弟の機平の子、つまり弥太郎の従弟である団蔵は
那須信吾とともに吉田東洋の暗殺に関わりました。


父母の横には1代とんで曾祖父母の彌一郎夫婦です。
百姓身分であったこの家が彌一郎により明和3年幡多新規郷士になったのです。
百姓身分であったとはいえ、それまでに赤岡などに住み、商業活動によって、
かなりの蓄財があっただろうことはこの墓所を見てもわかります。
(関田氏作成の系図情報による。)

大石圓の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
大石圓の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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