2010年3月14日(日) 今日はひどい黄砂の中を村田忠三郎のリベンジです。
村田忠三郎がどういう人なのかは、村田忠三郎碑をお読み下さい。
大きな顕彰碑をスタートして奥の方に入ってみたのですが、比較的新しい墓ばかりでした。
どうやら古い墓を下ろして集合させ、新しい墓を作っているように感じました。
こんなに古い墓が並べられていました。おそらくは無縁となった墓でしょう。
こんな中にはないだろうと、元へもどり、顕彰碑の近くの民家で
聞いてみましたが、わかりませんとのこと。
あきらめて駅にもどり、反対方向に少し歩くとわかりました。
ようやく見つけた標識の石柱です。吉川駅の北側にありました。
反対側から見た標柱です。墓所は是より百五十メートルと書かれています。
右の道を進み、すぐに左に曲がり竹藪に入っていきます。
竹藪から開けた墓所が見えました。
約30基の墓標が並んでいました。
村田忠三郎源克昌の墓です。
剣は千葉道場、学は藤森弘庵、土佐勤王党、五十人組
その後、武市半平太らと共に投獄され、藩吏井上佐市郎殺害の件で処刑された。
慶応元年五月十二日 二十六歳
側面には「明治三十一年七月四日拝
以特旨賜位記贈従四位
之命謹勅于茲」と彫られています。
生まれの事柄を彫った背面です。
一番前列の墓はご先祖なのでしょう。
墓所の大きさなどで、豊かで恵まれた環境だったのがわかります。
村田忠三郎、茂穂の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
村田忠三郎の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。