土佐の歴史散歩香南市>村田忠三郎碑

村田忠三郎碑


2006年4月22日(土) 今日はモネの庭のようすを見に行きましたが、その途中で寄り道をしました。


旧吉川村を東西に走る県道で東向きです。10:00ごろですが曇りなのでちょっと暗いです。
県東部に行くときはたいていこの道を通ります。


 ごめん−奈半利線をくぐるとすぐ、フジ活鰻産業の工場がある小さな交差点に石碑が建っていました。
 村田忠三郎先生と彫られていて勤王の志士の一人です。
700m行くと墓所があると書かれていました。


交差点から高架に沿って北西に向かうと間もなくごめん−奈半利線の吉川駅がありました。
この田圃は4月なのにもう田植えが終わっていますね。


 ごめん−奈半利線の各駅にはそれぞれやなせたかし先生の作品であるマスコットが建っています。
ここは養鰻が盛んなので「よしかわうなお君」です。


駅を見て東をふり返ると」大きな碑を発見しました。


表は「贈従四位村田忠三郎先生碑」とあり、墓ではありませんでした。


碑の裏はぎっしり顕彰の言葉が書きこまれていました。
村田忠三郎先生は名を克昌といい、甲斐源氏の後裔である。
若いときに江戸に留学し学問を藤森弘庵に、剣道を千葉重太郎に習った。
文久2年兄の馬太郎とともに武市瑞山の勤王同盟に参加して国事に奔走した。
文久3年藩主の勤王党弾圧により、武市瑞山先生と共に獄に入り、慶応元年五月26才で処刑された。
明治31年に、国事に貢献したことが追認され従四位を賜り、村長や校長の首唱で有志が集まり記念碑を建てることになった。
昭和11年3月 従六位勲六等 寺石正路撰
勲七等 松村丑太郎書
古川一同 建之


すぐ隣の碑にも頌徳碑がありました。
村田忠三郎の甥にあたるお医者さんのようです。

結局この日は墓を見ずに帰ってきてしまいましたが、普段何気なく通り過ぎていたところにも
国事に奔走した志士がいたことを知り、改めて幕末の土佐人はすごいと感じました。
(4年後にお墓を探しに来ることになりました。)


2010年3月に再訪したときに気づいたのですが、古川小学校跡の碑が建っていました。
「明治8年ここに小学校が創られ、明治13年の調査に教員1人、男生19人、女生4人と
記録されています。明治20年に吉原尋常小学校と合併したためなくなりました。その後、
この土地は村田家から寄贈され、「古川公会堂」として、さらに村有の「古川集会所」にと
改築され、地域交流の場として活用されていました。平成8年に集会所の移転にともない
公園となりました。吉川村教育委員会」

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