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寺田寅彦の墓

 1878年東京生まれ。
 「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉を残した科学者で、驚異的な数の論文を残しました。
 随筆もたくさん書いていて、少年時代に暮らした大川筋の自宅や高知城付近での遊びなども書かれています。

 父の利正は城下の宇賀良平の二男で寺田家に養子に入りました。
 利正は文久元年永福寺門前の「井口事件」があった時、親戚に依頼され少年宇賀喜久馬の介錯をしました。
 また、利正は後に陸軍会計官として西南戦争にも従軍しています。


2010年12月31日


ここは東久万の高知市北部環状線、東向きに撮影です。
右側にJAがあります。許可をもらって自動車を置きます。


左側(北側)を見ると住宅街に入る道路の右角に寺田(寅彦)家墓所を示す標柱があります。
ここからは道路が狭く、路側駐車は困難で迷惑です。


この電柱で左に入ります。


  山手に向かって入っていくとこの写真の場所に出ます。
 ここの小さな立て札に従って、ブロック塀沿いに進み、山を登ります。


山にさしかかって登って行くと右側に墓所はあります。


5基の墓が並んでいます。


一番奥は寅彦の父、利正の墓です。


左側には母の亀子の墓が並んでいます。


次が寺田寅彦の墓です。
墓石の表以外の三面には、小宮豊隆氏による墓誌が彫られています。

 寺田寅彦君墓誌

寺田寅彦君ハ明治十一年十一月二十八日東京市麹町區平河町
三丁目ニ生ル高知縣士族利正氏長男ナリ利正氏陸軍會計監
督トシテ諸所ニ轉任ス君或ハ伴ハレテ共ニアリ或ハ離レテ郷
里ニアリ明治十九年利正氏退役スルニ及ンデ君モ亦郷里高知
大川筋ノ家ニ定住ス後高知縣立尋常中学校熊本第五高等學校
ヲ經テ明治三十六年東京帝國大學物理學科ノ事業直チニ大學
院ニ入リテ實驗物理學ヲ専攻シ明治四十一年卒業トトモニ理
學博士ノ學位ヲ授ク明治四十二年官命ヲ奉ジテ地球物理學研

究ノタメニ独英両国ニ留學シ明治四十四年帰朝ノ後東京帝國
大學理科大學ニ教鞭ヲトル大正七年同學航空研究所兼務大正
九年學術研究會議會員大正十三年理化學研究所主任所員トナ
リソノ他測地學委員會委員航空評議會臨時評議員震災豫防評
議會評議員水産試驗場嘱託タリ昭和十年十二月二十一日東京
市本郷區曙町二十四番地ニ薨ス享年五十八
君科學者トシテ事實ヲ尊重シ事實ノ前ニ謙虚ナルコト人ニ超
ユ君ガ實驗物理學者トシテ終始シ亮ニ抽象ノ談理ニ奔ラセリ
シ所以亦此所ニ存ス事實ハ君ガ寶庫ニシテ兼テ君ガ師タリ君

ハ家常養飯ノ事實と雖決シテ等閑視セズ行住坐臥森羅萬象君
ニ問題ヲ提供セザルナク君ニ秘奥ヲ囁カザルナキニ似タリ君
ガ専門ノ論文報告無慮ニ百餘篇悉ク獨創ヲ以テ鳴リ世界ノ學
界ヲ刺激スルコト尠カラズト稱セラル君マタ文章ヲ以テ名ア
リ君ノ文事元是夏目漱石ノ提撕ニヨルト雖君夙ニ一家ノ風格
ノ具フ平明ニシテ幽玄麗雅ニシテ雋敏細緻ニシテ高邁君ガ人
トナリヲ示シテ餘蘊ナシ優婉ノ内ニ気骨ヲ蔵シテ天下ニ獨歩
ス盖シ漱石以来ノ偉観ナリ

     昭和十一年十二月    辱知 小宮豊隆撰


寅彦の墓と3人の妻達。手前から夏子、寛子、紳です。
寅彦は妻の運が悪く、夏子は20才で亡くなり、次の寛子も31才で亡くなり、最後に紳と結婚しました。


墓所の全景です。
父の利正より前の寺田家先祖の墓所は山上にあります。

寺田寅彦の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
寺田寅彦の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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