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寺田家先祖の墓所


2011年1月30日

 今日は上空に寒波が張り出して、日中の最高気温が6℃までという寒い日ですが、再チャレンジで寺田家のご先祖の墓所に行ってきました。
 一度、寅彦の墓参りをした後、チャレンジしたのですが進むべき方向を間違えて果たせなかったことがあったのです。
 寅彦とお父さんの墓所から竹林を尾根まで登り、右に向かうと左手には加賀野井団地が間近に見えて山を下りてしまいそうですが、最後に藪のトンネルに入り、谷を左に巻きながら山の東北端近くまで進みました。


林の中を通って来ましたが、この林が途切れ、広い墓地に出る寸前に墓所がありました。


入口から見たところです。左に墓石、右には墓石のない石積みの墓。


大きい石塔が寺田氏祖先之碑で、あとの5基は墓石にすべて
「寺田氏墓」と彫られているのみで側面にも何も書かれていま
せんでした。右端には割れた墓石が横たわっていました。


時代が古いのでしょうか、石積みの墓が3基並んでいました。


その他、このような石碑のない墓が2基ありました。
何かの理由で消滅したのでしょうか?割れた墓碑が残されている
ことから、風化あるいは人為的に破壊したのでしょうか?


寺田氏祖先之碑です。

後ろ3面に碑文が彫られていますが、私には古い用語がわからず
残念ながら半分ぐらいしか読み下すことができません。
最後の方に利正氏のことがあるので、比較的新しいものでしょう。

寺田君為四世以上并六世之租建碑来求予文曰吾家世事藩主
山内公本寒微又不幸早世無嗣者数予自宇賀来嗣既不及義父
之時毎上○域徒歎墳墓累累無次序今也世属昇平食禄家居乃
修治之任固在我子其為我記之因出示世系曰其為吾家始租諱
九右衛門天和元年没某為二世諱仁右衛門自他来嗣貞享元年
歿其為三世諱彌助自他来嗣享保十九年歿其為四世自他来嗣
諱傳五右衛門寛保三年歿于江戸其為六世諱左七宝暦十二年
歿于江戸七世以後則皆立石標之矣蓋自始租至六世刻字墓石
者獨有五世彌五八夫妻而已不可必主名者五不知何在者三是
吾之所以建一碑使群霊有所憑依也余以為事之彌久念動
之哀情者無知墳墓今山行戉見断碑于荊棘之中有愴然不可
為懐者況於其祖先乎維新之際君従軍以功自御用人擢為藩
士西南之役以陸軍會計官従軍征清之役進一等監○今又及
是○其顕先追遠貽孫謀可謂至矣遂叙知
     西森真太郎撰并書

 後日、もっと良い道はないかと探していたら、加賀野井団地から階段がついていることが分かりました。

2012年9月16日
 加賀野井団地の東入り口から団地に上がってくると、最初の交差点で左に折れて進み、山際で右に曲がる道です。
 この曲がり角を曲がった山側は道幅に余裕があり、曲がり角や住宅の車庫前を避ければ充分駐車できます。


曲がり角に防護策があり、手すりが上に伸びていました。これをあがります。


20mぐらい階段を進むと山上の墓地に出ます(東向き)。
向こう側が河野家、手前が野村家。この間を右(南)へ進みました。
野村家の墓地角ですぐに東西の道とのT字路になりました。


T字路で左(東)を見ると鳥居が見えました。


T字路で右(西)を見ると一段高い林が見えました。
この林に入ったところに、始めに紹介した大きい碑のある
寺田家墓所がありました。


ところが、寺田家墓所手前の薮の中に数基の墓が見え、よく見ると寺田の文字が見えました。
向こうに見える新しい墓は柴原家、手前右のセメントの角は笹岡家。その間の薮の中です。
右の樹木の少し左に、薮から墓石が顔を覗かせている。


薮をはぐってみると系図に出てくる寺田久右衛門でした。
久右衛門は寅彦の義理の祖父にあたります。
この左には妻の墓がありました。
近い機会に友の会の手で薮を切り開かねばなりません。


2013年1月19日(土) 今日は陽が出て穏やかでした。試しに一人で切り開きに行きました。
四宮氏から寺田家の系譜情報をいただきましたので、今後のキャプションに取り入れていきます。


このような笹藪を剪定ばさみで切り開きました。


2時間ばかりの作業の結果、最前列の墓石が顔を出しました。あとは応援を呼ぼうと思います。


「寺田久右衛門正敬」 寺田寅彦の義理の祖父になります。
養子源七郎が亡くなった後、川田惣五郎の次男が養子に入り、養父喜内の跡を継ぎました。
「享年五十有三 安政元寅年正月廿七日」と刻まれています。
しかし、嘉永七寅年(1854)が11月27日で改元して安政元年なので、安政元年には正月はないのか。


「寺田久右衛門妻」(後妻) 74才で明治22年(1889)12月29日没。
久右衛門の妻は源七郎亡きあとの喜内の娘でしたが亡くなってしまい、
高知市北新町の近森氏から政子を迎えました。
政子は寺田寅彦の母となる「亀」を生みました。


「寺田喜内正重」 嘉永3年(1850)1月27日没。
寺田常八の長男で、御歩行挌を経て御用人格に昇進しました。


「寺田喜内妻」 85才で明治元年(1868)11月25日没。
竹内新右衛門の娘「いつ」です。


「寺田源七郎」 文政2年(1819)8月27日没。
植田万蔵の次男が養子に入りましたが、養父の跡を継ぐ前に
亡くなりました。


「寺田源七郎妻」 天保7年6月14日没。「真蓮妙光信女」。
寺田喜内の娘です。
源七郎が早くなくなったため、次の養子久右衛門を迎えます。


2013年4月11日(木)
今度は仲間と一緒にと思いましたが、定年退職後もまだ何等かの仕事をしているので、
なかなかタイミングを合わせるのが難しく、また、一人で来ました。


あれから3ヶ月経ちましたが、あまり変わっていません。ウツギ属の花が咲いています。


2時間ほどの今日の作業の結果、2列目が見えるようになりました。
薮を透かして見たところ、3列目は黒っぽい大きな碑が1基あるのみです。


2列目の右端は「中西氏墓」と刻まれています。周囲には何も彫られていません。
誰なのでしょうか。


「寺田常八墓」 享和三年(1803)七月四日卒。
宝暦十二年に養父左七の後を継ぎ、享和三年まで諸御用方を勤めました。
寺田新右衛門の次男が養子に入りました。


「寺田常八妻墓」 文化八年(1811)六月十四日歿。
周囲には何も刻まれていませんが、常八の養父である左七の姉か妹です。
なお、系図を見ると左七以前は吉村姓を名乗っていたようです。


一番左には早世した「寺田喜内娘」がいました。左側面に「早世」の文字があるのみです。
墓石は割れて、セメントで修理した跡がありました。
雨がぽつぽつと降ってきたので、これにて終了。


2013年4月12日(金)

昨日薮を透かして見た3列目の大きい碑が気になり、今日も昼食後に行って2時間ばかり働いてきました。


これです。周囲を刈り払い、写真を撮りました。台石の隙間から径5cmぐらいの木が生えています。


なんと、大きい墓石でした。
「高智縣士族寺田利正三女之墓」となっています。


碑文の文字は大部分はっきりしており読むことができました。
右側面 「名茂尾慶應三季丁卯二月十九日生於土(州?)高智
明治十季申戌十月十三日歿於東京客舎葬於谷中天王寺畔
塋域季僅八歳」


左側面 「明治廿三年七月七日父利正發墓収遺骨(齋?)墓石
而帰其月十一日改葬于土佐國土佐郡秦村作(倍?)谷先塋之次」


系図では「繁」となっている寺田寅彦の姉なのでしょう。(寅彦は明治11年生まれ)
右側面には、明治10年に僅か8歳で茂尾が亡くなり、東京の谷中墓地に葬ったことが書かれて
います。

当時、父利正は東京で陸軍会計監督を勤めていて、明治19年に退役し、一家揃って高知に帰り
ました。父母、家族は茂尾を一人東京に置いて帰ったのを不憫に思っていたのでしょう。

左側面には、明治23年に土佐郡秦村に改葬したと書かれています。
秦といえばもう少し東方ですが、そこからまたここに改葬したのでしょうか。それとも当時はここも
秦村だったのでしょうか。

それにしても大きい墓石ですね。

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