土佐の歴史散歩高知市北部>中山高陽墓所

中山高陽墓所


2013年8月3日(土) 今日も30℃を越えていて暑いですが、曇りで気温も昨日よりは2℃ばかり低いようです。
薊野から薊野中町を北に進み、あぞうの霊園に入り西端を少し下に下ります。
堺町に誕生地碑のある、江戸時代の画家、中山高陽の墓をたずねました。


薊野中町の通りにはこのような標柱が立っていました。
しかし、墓所の近くまで来ると案内はありませんでしたので、古い地図を頼りに探しました。


「土佐の墓」には福寿院の裏山伊藤墓地の下とありました。これが現在の福寿院です。
このすぐ上には古い地図には無い道路がありました。おそらく自動車道の工事のために作った
道路だと思われます。


また、新しい道路を挟んだ上には「小倉神社」という新しい祠がありました。


祠の隣には上に上がる階段があり、墓地に続くのかと期待しましたが、
その上には自動車道が見え、墓地らしき場所はありませんでした。
近くに同じように階段があり、そこにも上がってみましたが中山家のものはありませんでした。
おそらく自動車道の建設により移転したものと思いました。


そこで元の道路に戻り、なおも北上し自動車道の上方に出ると霊園がありました。


事務所でお訊きするとクーラーの効いた室内に招き入れられ、丁寧に地図を示して、
霊園の西隣にあることを教えていただくことができました。感謝です。


霊園の道路を進み、西端のカーブから下に下りると中山高陽の墓地がありました。
やはり思った通り、平成6年9月に迷って行った約100m下から改葬したものでした。


手前の12基ある墓所が中山家の墓所です。向こうには伊藤家の墓所が広がっていました。


黒い苔が生えていて、よく見ないとわかりませんでした。
「呼嗚高陽源山人墓」となっています。


周囲にも黒い苔が生えていて、刻んである碑文が読めません。
「土佐の墓」によると、安永九年(1780)三月十二日行年六十四歳、
墓碑は仲の良かった井上金峨東江源鱗によるものだということです。


東江源鱗書並題額と言う文字が見えました。


42歳から江戸に出て三絶と言われるまで活躍していた高陽ですが、
最後に病を得て甥の秀種が迎えに行き土佐に帰ったのだそうです。


「芳鱗中山守強墓」嘉永三年(1850)十二月廿一日歿行年六十九歳
秀種の嗣子で庄屋を継ぎました。碑文によると実直なことで市中の信頼を受け、
子弟に学問を教授することもあり、庄屋としては珍しく帯刀を許されていたそうです。
また、高陽の墓の「嗚呼」にも触れ、更に守強の子供たちのことにも触れています。
碑文には岡本密の署名があり、有名な岡本寧甫のことだそうです。

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