土佐の歴史散歩高知市東部>島村家(雅事)の墓所

島村家(雅事)の墓所


2007年4月19日(金) 五台山に出かけました。


兼山神社に車を置いて、旧道を歩き始めました。
ちょうど吸江寺の上あたりでしょうか、竹林を通して浦戸湾の美しい
風景が目に飛び込んで来ました。


陽気が良くなって、猫が擁壁の上で昼寝をしていました。近づくと
あわてて逃げられるかと思いましたが、ゆっくり起きあがったかと
思うと、思い切り伸びをしました。


護国神社あたりから上がって来た石段に合流しました。
結構幅の広い石段です。昔は大勢の人が上り下りしたのでしょう。

 今日は井上俊三の墓を探しに出かけたのです。しかし、それらしい場所を探しても見つかりません。今日で3度目です。そこで大阪、京都で仕事中の前田秀徳先生に電話をかけました。すると、井上俊三の墓からまっすぐ数十m北に島村家の墓所があるはずと大きなヒントを教えてくれました。そこで、井上家の墓所が不明ではあるが、特徴のある島村家の墓所を先に探せばいいということになりました。


自然石の大きい墓が簡単に見つかりました。横に並ぶ墓石にも島村の姓が見えます。

 
贈正五位島村雅事之墓と刻まれています。裏にも沢山の文字が並んでいます。
なんとか読んでみたのですが、判読できない文字がいくつもありました。
(読めたと思っている文字もまちがいがあるかもしれません)

島村雅事之墓

君名雅事島村氏高知人善使槍為

人忠亮夙傷○星墜○○○○文久

之際士論盛起大唱尊攘君亦興同

志奔走窃有亥謀議○為有同○志

慶応元年五月撃○獄三年○○○

釈中興之後嘗一在官明治十八年

七月三十日病殉壽六十四歳三十

一年七月特追贈正五位

 どうやら私が読めるのは、島村雅事は槍の名人で文久年間の土佐勤王党が旗揚げしたときに国を思い仲間に入り活動した。しかし、勤王党弾圧に遇い慶応元年五月には武市瑞山は切腹、雅事も3年間獄に入った。なんとか許されたのか後に官職に就き明治十八年病気で亡くなったらしいということです。

 さらに、もうひとつの墓が目に付きました。碑表の「甲冑次」という名前の他に、碑文の中に戊辰の役(母辰という記述も見られる)という文字が私の目を惹いたのです。私の曾祖父も迅衝隊に属し戊辰の役に出陣していたのです。もしかしたら言葉を交わしていたかもしれません。


島村甲冑次壽椿墓は左側面から裏面、右側面と前面に撰文が彫られています。

島村甲冑次壽椿墓

明治戊辰春二月王師東征我軍奉○勅従

山道同年十月ト旋越明年七月我公○布

賞典命臣壽榮曰汝児壽椿向○従軍自

甲入武転戦干総野之間奥州母辰之役誤中

飛丸艱苦備至還國未幾又罹病以死城嘉○


烈我愍其不吊待命汝進班新小姓席賜俸五口

臣○栄恭拝命退吉之児壽椿之○君姓源氏高島

村壽郎君壽栄之嫡也君生子嘉永庚戌八月十

一日生時家方製甲冑故小字称甲冑次始入別撰隊

後又入迅衝隊八月廿一日有母戌之役其○也実○明


年六月四日年僅二十君将東有國什○梅枝農○

毛開久春廼日亦愚那留身○時○得耳什里是可以加其

志矣銘曰維賊國境関母戌地兆其敗天豈容生一

夫不守宣衝賊城狐狸尾迹○狼呑声切成身死

有餘栄有碑四尺山高水清  庚午一月岩埼○撰

 なかなか難しくて雰囲気は感じるのですが、一部しか理解できません。戊辰の役で甲州武州奥州と転戦し誤って被弾しやっと帰国できたが病気になって亡くなったらしい。それでご褒美をもらったことや甲冑次という名のことはわかるのですが、最後の右面に書かれていることが私にはよく解りませんでした。
 さて、この日の目的は井上俊三の墓を見つけることでしたが、どうやら、この島村家の墓所を基準に元にたどると下の写真の場所になります。


幕末の写真家、井上俊三の墓があったであろう場所。
「龍馬からのメッセージ」に掲載されている写真には後ろに石垣が写っています。
もしかしたら県外に子孫の方がおられて、墓参もできないので引き揚げられたのでしょうか。
(後日、井上俊三の墓は逢坂山に移転改葬していることがわかりました。)


意外な収穫を得て帰る道で、ツツジとフジが見送ってくれました。

土佐の歴史散歩高知市東部>島村家(雅事)の墓所