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岩崎弥太郎生家

岩崎家略系図


2008年12月10日 今日はいい天気です。


国道55号線から、安芸病院・浄貞寺方面に進み、そのまま約2km
北進すると、弥太郎が手を挙げて進む方向を示しています。


曲がるとすぐにまた弥太郎の姿が道路右側に見え、この交差点を左に進めと合図しています。
なお、国道55号線にある岩崎家への案内で国道から北進するとこの写真の向こうからこちらへくる
ようになると思います。これは、このあたりの道路が狭いので左回りの一方通行にしているのでしょう。


左手には小さな集落が見えました。ビニルハウスの脇を進むと、この中に駐車場と岩崎弥太郎の生家がありました。


駐車場の向こうに大きな木や美しい竹垣、そして茅葺きの屋根が見えました。


茅葺き屋根の家、倉が2棟、風呂だろうか、小さな小屋が1つ、竹垣の向こうに見えました。


その道のひとつは石碑の正面に到達していました。
「岩崎彌太郎生誕之地」碑です。


石碑の後ろに見えた倉の棟の鬼瓦が気になりました。


家に帰ってからよく見たら、ここに岩崎家の家紋の「三階菱」があったのです。


「岩崎彌太郎生誕之地」碑のアップです。


「三階菱」に気づいてないので、倉の壁面にあった三菱マークを
喜んで撮ったのでした。三菱マークは土佐山内家の家紋である
「三つ葉柏」と岩崎家の家紋の「三階菱」を合わせたものだそうです。


倉の西側には栗の木などが植えられていました。


倉の北側には文旦でしょうか、大きい柑橘の木がありました。


倉の東側にも畑が広がっていました。


倉の東面です。水切り瓦が何段もありました。


茅葺きの家の北側の倉です。


今時珍しい、手押しの消防ポンプが置かれていました。


茅葺きの家の勝手口です。


土間に入ると、かまどが居間の縁にとりついていました。


座敷の床の間です。
周囲の雨戸などは全部閉められていて真っ暗でした。


土間の上は天井はなくて茅葺きの骨組みがそのまま見えました。


かまどの横に土間から居間に上がる踏み台が置かれていました。
いごっそうの父としっかりもんの母が行き来するのが見えるようです。


土間に2カ所だけ雨戸が開けられていて、ほかは全部閉められて
いました。門からの道が来ているこのあたりが玄関なのでしょうか。


弥太郎少年が日本列島を模して庭石を置いたといわれています。
彼が少年の頃はまだ屋地はこんなに広くはなかったのではないかと思いますが、
少年の彼にとっては小さなこの庭が夢を広げる太平洋だったのかもしれませんね。


風呂と便所だっただろう小さな建物。


前庭の全景です。
弥太郎はよく勉強し、ライバルであった分家の馬之介に先を越された
ものの、14歳で殿様からご褒美をいただくまでに成長しました。


美しい竹垣を見ながら、訪問を終わりました。
見学者用のトイレは駐車場横にありました。


岩崎弥太郎像


厳しい顔つきをしています。


周囲には岩崎弥太郎と関係の深い風景や出来事をあらわす
絵の彫刻された石版がはり付けられていました。


この動きの感じられる、堂々たる作風は、檮原の維新の門の
銅像の作風に似ています。

江ノ川上公園に設置されていたのですが、その後ここを通る道路が計画され、この銅像は2015年3月に岩崎弥太郎生家の駐車場に移転されました。

安芸市観光課のHPで調べたところ、次のような銅像のデータがありました。
浜田さんは琴ヶ浜のお龍君枝像や梼原の維新の群像、五台山の濱口雄幸像など、県内では20体以上の銅像を制作しています。

江ノ川上公園に昭和60年、生誕150周年を記念して建立された。

  • 銅 像:3m30cm
  • 制作者:彫刻家 浜田 浩造(高知県出身)
  • 撰 文:有光次郎(高知県出身)
  • 揮 毫:手島右卿
  • 建立費:約4,100万円(うち岩崎家より1,000万円寄付)



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