土佐の歴史散歩高知市中心部>薫的神社

薫的(くんてき)神社


2009年1月12日 撮影に訪れました。
2013年1月9日 一部撮り直しや追加に伺いました。


 薫的和尚は、長宗我部元親が両親の菩提寺として天正18年(1590)に建てた土佐一番の禅寺、
瑞応寺の和尚でした。
 瑞応寺は明治3年に廃寺とされ、薫的和尚を祀る洞ヶ島神社となり、昭和24年薫的神社となって
います。


鳥居の扁額には吉田茂の筆になる薫的神社の文字。

 
一番目の狛犬さんです。

 
二番目の狛犬さんです。


常夜灯には嘉永3年と彫られています。


この足もとの台座には、坂本家の才谷屋がのれん分けした
といわれる才谷屋助十郎の名が。


境内の左隅に「古池」があり、参拝者をなごませてくれます。


手水舎です。


大きいお百度石があります。名前は鬼頭良之助。ひまわり乳業のページに詳しい


拝殿です。


細かい彫りと重量感のある素晴らしい彫刻です。


参道左側には厳島神社、あわしま神社という境内社があります。


新築の通夜殿です。


小さい建物が奥に見えます。
時代は山内家の支配に移り、山内家の連れてきた新参の
真如寺が山内家の菩提寺となりました。二代藩主忠義公の
死後、二つの寺の確執は激しくなり、六代豊隆公の怒りにふれ、
薫的和尚はこの座敷牢に入れられました。


後に勤王党のメンバーが入れられたのもこの牢だそうです。

    薫 的 様 御 昇 天 の 御 牢

くんてき様がこの御牢で冤罪のために七年間ご苦労されたといわれます。
今より三百十四年前、寛文十一年旧正月十日の明け方、両手の親指を
かみ切り白無垢の小袖を引きちぎり血をもって辞世を書かれ、その上
御自ら舌をかみ切って西の方高知城をはったと睨み両眼を見開いた儘
座禅を組んで御昇天されました。享年四十七歳。伝説に依れば七日七晩
大暴風になったそうです。
この建物は現在のはりまや町三丁目旧山田町の牢ノ町にありましたが
明治初年今の小津高校付近に移転、明治十七年高知城西の刑務所に
再移転、この高知刑務所は昭和五十一年十月十二日に高知市布師田に
移転したので現在城西公園となっています。
大東亜戦争中はまだ実際に政治犯を収容していたもので昭和二十五年
十一月二十七日薫的神社へ払い下げを受け、大神様の当時のご辛苦を
忍び奉り、信者の方々の修行道場として保存することになった建物です。
    昭和六十年六月一日   薫  的  神  社


薫的和尚の遺体は小高坂山に一旦葬られましたが、その後、
和尚のたたりと思われる様々なできごとが城主の身辺に起こり、
山内家光善院の夢告があり、霊を鎮めるため享保12年(1727)に
墓を瑞応寺裏のこの岩山に移し、丁重にお祀りしたのだそうです。
従って、小高坂山の薫的大和尚之墓は空墓になっています。

なお、千年の昔紀貫之の時代、このあたりは海で、この岩山が
洞ヶ島という島だったそうで、洞ヶ島という地名が残ったようです。


廃仏毀釈で現在は無いはずですが、瑞応寺を名乗る建物が
墓所の隣にありました。


また、ここには山内時代の高知城を築城した百々越前守の
子孫の墓もあります。


薫的和尚の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
洞ヶ島神社は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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