2013年1月31日(木) 中村の史跡を訪れました。
一条教房の墓所です。
ここの再興に努力した上岡利太郎の奉納した手水鉢がありました。
墓前の全景です。
教房について四万十市教育委員会の案内板。
高知県指定史跡 一 條 教 房 墓 指定年月日 昭和二十八年一月二十八日 所 在 地 四万十市丸の内一六三九の一 (妙華寺谷) 一條教房は、応永三十年(1423)京都の一條室町第で五摂家の一つである一條家の嫡子として生まれた。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任した従一位一條兼良で、母は権中納言中御門宣俊の女である。 長禄二年(1458)関白となり、寛正四年(1463)に辞し、この間に従一位に叙せられている。 応仁二年(1468)九月、泉州堺から船出し、同年十月頃幡多ノ庄に着いた。そして中村に館をかまえ、以来一條氏は、五代百余年にわたり戦国大名として土佐西部を支配するとともに京文化を伝えた。 文明十二年(1480)五十八才で逝去。墓はこの付近にあった妙華寺境内に祀られたようであるが、江戸時代に入り寺が退転すると、墓所は時の経過と共に人々に顧みられなくなったらしい。この墓碑は、後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものである。 平成八年三月一日 四 万 十 市 教 育 委 員 会 |
なお、「土佐の墓」において山本氏は再建について、
山崩れで埋没した墓を上岡利太郎氏が発掘、五輪石の二個を得て
一條家に具申し一條家が補足再興した、とあります。
一条教房の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。